して、ものをいうにも呼吸《いき》をはずまして、可訝《おかし》いだろうじゃないか。先刻《さっき》僕の帰った時も、戸をあけると、吃驚《びっくり》して、何だかおどおどしておいでだったぜ。こないだの時だってもそうだ。髯に向って、(いらっしゃいまし)自分の亭主を迎えるとって、(いらっしゃいまし)なんて、言う奴があるものか。何だってそう気が小さくッて、物驚きをするんだなあ。それだから疑ぐられるんだ。不可《いけない》ねえ。」
 お貞は淋しげなる微笑《えみ》を含み、
「そういってながら芳さんもあの時はやっぱりそそッかしく、二階へ駈《か》け上ったじゃあないかね。」
 少年は別に考うる体《てい》もなく、
「そりゃ何だ、僕は何も恐《こわ》いことはないけれど、あの髯が嫌だからだ。何だか虫が好かなくッて、見ると癪《しゃく》に障るっちゃあない、僕あもう大嫌《だいきらい》だ。」
 と臆面《おくめん》もなく言うて退《の》けつ。渠《かれ》は少年の血気にまかせて、後前《あとさき》見ずにいいたるが、さすがにその妻の前なるに心着きけむ、お貞の色をうかがいたり。
 お貞は気に懸けたる状《さま》もなく、かえって同意を表するごとく、勢《いきおい》なげに歎息して、
「誰が見てもちがいはないねえ。私だってやっぱり嫌だわ。だがね、芳ちゃんは、なぜ好かないの。」
 少年はお貞の言《ことば》の吾が意を得たるに元気づきて、声の調子を高めたり。
「他《ほか》にね、こうといって、まだ此家《ここ》へ来て、そんなに間もないこったから、どこにどうという取留めたこともないけれど、ただね、髯の様子がね、亡なった姉様の亭主に肖《に》ているからね、そのせいだろうと思うんだ。」
「そうして、不可《いけな》いお方だったの。」
 少年はそぞろに往時を追懐すらむ、慨然《がいぜん》としたりけるが、
「不可いどころの騒《さわぎ》じゃない、姉様を殺した奴だもの。」
 お貞は太《いた》く感ぜし状《さま》にて、
「まあ。」
 とそのうるみたる眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りぬ。
「酷《ひど》い人ね、何だッてまた姉様を殺したんだろうね。芳さんのお姉様《あねえさん》なら、どんなにか優しい、佳《い》い人だったろうにさ。」
「そりゃ、真実《ほんとう》に僕を可愛がってくれたッちゃあないよ。今着ている衣服《きもの》なんか、台なしになってるけれど、
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