》にて、杉谷という村は、山もて囲まれたる湿地にて、菅《すげ》の産地なり。この村の何某《なにがし》、秋の末つ方、夕暮の事なるが、落葉を拾いに裏山に上り、岨道《そばみち》を俯向《うつむ》いて掻込《かきこ》みいると、フト目の前に太く大《おおい》なる脚、向脛《むこうずね》のあたりスクスクと毛の生えたるが、ぬいとあり。我にもあらず崖を一なだれにころげ落ちて、我家の背戸に倒れ込む。そこにて吻《ほっ》と呼吸《いき》して、さるにても何にかあらんとわずかに頭《こうべ》を擡《もた》ぐれば、今見し処に偉大なる男の面《つら》赤きが、仁王立ちに立《たち》はだかりて、此方《こなた》を瞰下《みお》ろし、はたと睨《にら》む。何某はそのまま気を失えりというものこれなり。
毛だらけの脚にて思出す。以前読みし何とかいう書なりし。一人の旅商人《たびあきゅうど》、中国辺の山道にさしかかりて、草刈りの女に逢う。その女、容目《みめ》ことに美しかりければ、不作法に戯れよりて、手をとりてともに上る。途中にて、その女、草鞋《わらじ》解けたり。手をはなしたまえ、結ばんという。男おはむきに深切だてして、結びやるとて、居屈《いかが》みしに、憚《はばか》りさまやの、とて衝《つ》と裳《もすそ》を掲げたるを見れば、太脛《ふくらはぎ》はなお雪のごときに、向う脛《ずね》、ずいと伸びて、針を植えたるごとき毛むくじゃらとなって、太き筋、蛇《くちなわ》のごとくに蜿《うね》る。これに一堪《ひとたま》りもなく気絶せり。猿の変化《へんげ》ならんとありしと覚ゆ。山男の類なりや。
またこれも何の書なりしや忘れたり。疾《はや》き流れの谿河《たにがわ》を隔てて、大いなる巌洞《いわあな》あり。水の瀬激しければ、此方《こなた》の岸より渡りゆくもの絶えてなし。一日《あるひ》里のもの通りがかりに、その巌穴の中に、色白く姿乱れたる女一人立てり。怪しと思いて立ち帰り人に語る。驚破《すわ》とて、さそいつれ行きて見るに、女同じ処にあり。容易《たやす》く渉《わた》るべきにあらざれば、ただ指《ゆびさ》して打騒ぐ。かかる事二日三日になりぬ。余り訝《いぶか》しければ、遥《はる》かに下流より遠廻りにその巌洞《いわあな》に到りて見れば、女、美しき褄《つま》も地につかず、宙に下る。黒髪を逆《さかさ》に取りて、巌《いわ》の天井にひたとつけたり。扶《たす》け下ろすに、髪を解けば、ねばねばとして膠《にかわ》らしきが着きたりという。もっともその女|昏迷《こんめい》して前後を知らずとあり。
何の怪のなす処なるやを知らず。可厭《いや》らしく凄《すご》く、不思議なる心持いまもするが、あるいは山男があま干《ぼし》にして貯《たくわ》えたるものならんも知れず、怪《け》しからぬ事かな。いやいや、余り山男の風説《うわさ》をすると、天井から毛だらけなのをぶら下げずとも計り難し。この例本所の脚洗い屋敷にあり。東京なりとて油断はならず。また、恐しきは、
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猿の経立《ふつたち》、お犬の経立《ふつたち》は恐しきものなり。お犬とは狼のことなり。山口の村に近き二ツ石山は岩山なり、ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々の岩の上にお犬うずくまりてあり。やがて首を下より押上ぐるようにしてかわるがわる吠《ほ》えたり。正面より見れば生れ立ての馬の子ほどに見ゆ、後《うしろ》から見れば存外小さしと云えり。お犬のうなる声ほど物凄《ものすご》く恐しきものなし。
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実《げ》にこそ恐しきはお犬の経立ちなるかな。われら、経立なる言葉の何の意なるやを解せずといえども、その音の響《ひびき》、言知らず、もの凄《すさ》まじ。多分はここに言える、首《こうべ》を下より押上《あしあぐ》るようにして吠ゆる時の事ならん。雨の日とあり、岩山の岩の上とあり。学校がえりの子どもが見たりとあるにて、目のあたりお犬の経立ちに逢う心地す。荒涼たる僻村《へきそん》の風情も文字の外にあらわれたり。岩のとげとげしきも見ゆ。雨も降るごとし。小児《こども》もびしょびしょと寂《さみ》しく通る。天地この時、ただ黒雲の下に経立《ふつた》つ幾多馬の子ほどのお犬あり。一つずつかわるがわる吠ゆる声、可怪《あや》しき鐘の音《ね》のごとく響きて、威霊いわん方なし。
近頃とも言わず、狼は、木曾街道にもその権威を失いぬ。われら幼き時さえ、隣のおばさん物語りて――片山里にひとり寂しく棲《す》む媼《おうな》あり。屋根傾き、柱朽ちたるに、細々と苧《お》をうみいる。狼、のしのしと出でてうかがうに、老いさらぼいたるものなれば、金魚麩《きんぎょぶ》のようにて欲《ほし》くもあらねど、吠えても嗅《か》いでみても恐れぬが癪《しやく》に障りて、毎夜のごとく小屋をまわりて怯《おびや》かす。時雨しとしとと降りける夜《
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