を思うより前《さき》に――何となく今も遥《はる》かに本所の方《かた》へ末を曳《ひ》いて消え行く心地す。何等か隠約の中《うち》に脈を通じて、別の世界に相通ずるものあるがごとくならずや。夜半《よわ》の寝覚に、あるいは現《うつつ》に、遠吠《とおぼえ》の犬の声もフト途絶ゆる時、都大路の空行くごとき、遥かなる女の、ものとも知らず叫ぶ声を聞く事あるように思うはいかに。
またこの物語を読みて感ずる処は、事の奇と、ものの妖《よう》なるのみにあらず。その土地の光景、風俗、草木の色などを不言の間に聞き得る事なり。白望に茸を採りに行きて宿りし夜とあるにつけて、中空の気勢《けはい》も思われ、茸狩る人の姿も偲《しの》ばる。
大体につきてこれを思うに、人界に触れたる山魅人妖《さんみじんよう》異類のあまた、形を変じ趣をこそ変《かえ》たれ、あえて三国伝来して人を誑《ば》かしたる類《たぐい》とは言わず。我国に雲のごとく湧《わ》き出《い》でたる、言いつたえ書きつたえられたる物語にほぼ同じきもの少からず。山男に石を食《くわ》す。河童の手を奪える。それらなり。この二種の物語のごときは、川ありて、門《かど》小さく、山ありて、軒の寂しき辺《あたり》には、到る処として聞かざるなき事、あたかも幽霊が飴《あめ》を買いて墓の中に嬰児《えいじ》を哺《はぐく》みたる物語の、音羽にも四ツ谷にも芝にも深川にもあるがごとし。かく言うは、あえて氏が取材を難ずるにあらず。その出処に迷うなり。ひそかに思うに、著者のいわゆる近代の御伽《おとぎ》百物語の徒輩にあらずや。果してしからば、我が可懐《なつか》しき明神の山の木菟《みみずく》のごとく、その耳を光らし、その眼を丸くして、本朝の鬼《き》のために、形を蔽《おお》う影の霧を払って鳴かざるべからず。
この類《たぐい》なおあまたあり。しかれども三三に、
[#ここから4字下げ]
……(前略)……曾《かつ》て茸を採りに入《い》りし者、白望の山奥にて金の桶《おけ》と金の杓《しゃく》とを見たり、持ち帰らんとするに極めて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなわず、また来んと思いて樹の皮を白くし栞《しおり》としたりしが、次の日人々と共に行きてこれを求めたれど終《つい》にその木のありかをも見出し得ずしてやみたり。
[#ここで字下げ終わり]
というもの。三州奇談に、人あり、加賀の医王山《いおうせん》に分入りて、黄金の山葵《わさび》を拾いたりというに類す。類すといえども、かくのごときは何となく金玉の響《ひびき》あるものなり。あえて穿鑿《せんさく》をなすにはあらず、一部の妄誕《もうたん》のために異霊《いれい》を傷《きずつ》けんことを恐るればなり。
また、事の疑うべきなしといえども、その怪の、ひとり風の冷き、人の暗き、遠野郷にのみ権威ありて、その威の都会に及び難きものあるもまた妙なり。山男に生捕られて、ついにその児《こ》を孕《はら》むものあり、昏迷《こんめい》して里に出《い》でずと云う。かくのごときは根子立《ねこだち》の姉《あねえ》のみ。その面《おもて》赤しといえども、その力大なりといえども、山男にて手を加えんとせんか、女が江戸児《えどっこ》なら撲倒《はりたお》す、……御一笑あれ、国男の君。
物語の著者も知らるるごとく、山男の話は諸国到る処にあり。雑書にも多く記したれど、この書に選まれたるもののごとく、まさしく動き出づらん趣あるはほとんどなし。大抵は萱《かや》を分けて、ざわざわざわと出で来り、樵夫《きこり》が驚いて逃げ帰るくらいのものなり。中には握飯を貰いて、ニタニタと打喜び、材木を負うて麓《ふもと》近くまで運び出すなどいうがあり。だらしのなき脊高《のっぽ》にあらずや。そのかわり、遠野の里の彼のごとく、婦《おんな》にこだわるものは余り多からず。折角の巨人、いたずらに、だだあ、がんまの娘を狙《ねろ》うて、鼻の下の長きことその脚のごとくならんとす。早地峰《はやちね》の高仙人、願《ねがわ》くは木《こ》の葉の褌《こん》を緊一番せよ。
さりながらかかる太平楽を並ぶるも、山の手ながら東京に棲《す》むおかげなり。
[#ここから4字下げ]
奥州……花巻より十余里の路上には、立場《たてば》三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少《まれ》なること北海道石狩の平野よりも甚し。
[#ここで字下げ終わり]
と言われたる、遠野郷に、もし旅せんに、そこにありてなおこの言《ことば》をなし得んか。この臆病《おくびょう》もの覚束《おぼつか》なきなり。北国にても加賀越中は怪談多く、山国ゆえ、中にも天狗の話は枚挙するに遑《いとま》あらねど、何ゆえか山男につきて余り語らず、あるいは皆無にはあらずやと思う。ただ越前には間々あり。
近ごろある人に聞く、福井より三里|山越《やまごえ
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング