遠野の奇聞
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幽僻地《ゆうへきち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)陸中国|上閉伊郡《かみへいごおり》
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近ごろ近ごろ、おもしろき書を読みたり。柳田国男氏の著、遠野物語なり。再読三読、なお飽くことを知らず。この書は、陸中国|上閉伊郡《かみへいごおり》に遠野郷とて、山深き幽僻地《ゆうへきち》の、伝説異聞怪談を、土地の人の談話したるを、氏が筆にて活《い》かし描けるなり。あえて活かし描けるものと言う。しからざれば、妖怪変化《ようかいへんげ》豈《あに》得てかくのごとく活躍せんや。
この書、はじめをその地勢に起し、神の始《はじめ》、里の神、家の神等より、天狗《てんぐ》、山男、山女、塚と森、魂の行方、まぼろし、雪女。河童《かっぱ》、猿、狼、熊、狐の類《たぐい》より、昔々の歌謡に至るまで、話題すべて一百十九。附馬牛《つくもうし》の山男、閉伊川の淵《ふち》の河童、恐しき息を吐《つ》き、怪しき水掻《みずかき》の音を立てて、紙上を抜け出で、眼前に顕《あらわ》るる。近来の快心事、類少なき奇観なり。
昔より言い伝えて、随筆雑記に俤《おもかげ》を留《とど》め、やがてこの昭代に形を消さんとしたる山男も、またために生命あるものとなりて、峰づたいに日光辺まで、のさのさと出《い》で来《きた》らむとする概あり。
古来有名なる、岩代国《いわしろのくに》会津の朱の盤、かの老媼茶話《ろうおんさわ》に、
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奥州会津|諏訪《すわ》の宮に朱の盤という恐しき化物ありける。或暮《あるひぐれ》年の頃廿五六なる若侍一|人《にん》、諏訪の前を通りけるに常々化物あるよし聞及び、心すごく思いけるおり、又廿五六なる若侍|来《きた》る。好《よ》き連《つれ》と思い伴いて道すがら語りけるは、ここには朱の盤とて隠れなき化物あるよし、其方《そなた》も聞及び給うかと尋ぬれば、後《うしろ》より来《きた》る若侍、その化物はかようの者かと、俄《にわか》に面《おもて》替り眼《まなこ》は皿のごとくにて額に角《つの》つき、顔は朱のごとく、頭《かしら》の髪は針のごとく、口、耳の脇まで切れ歯たたきしける……
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というもの、知己《ちき》を当代に得たりと言うべし。
さて本文の九に記せる、
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菊地|弥之助《やのすけ》と云う老人は若き頃駄賃を業とせり。笛の名人にて、夜通しに馬を追いて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜にあまたの仲間の者と共に浜へ越ゆる境木峠《さかいぎとうげ》を行くとて、また笛を取出《とりいだ》して吹きすさみつつ、大谷地《おおやち》(ヤチはアイヌ語にて湿地の義なり内地に多くある地名なりまたヤツともヤトともヤとも云うと註あり)と云う所の上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺《しらかば》の林しげく、其《その》下は葦《あし》など生じ湿りたる沢なり。此時《このとき》谷の底より何者か高き声にて面白いぞ――と呼《よば》わる者あり。一同|悉《ことごと》く色を失い遁《に》げ走りたりと云えり。
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この声のみの変化《へんげ》は、大入道よりなお凄《すご》く、即ち形なくしてかえって形あるがごとき心地せらる。文章も三誦《さんしょう》すべく、高き声にて、面白いぞ――は、遠野の声を東都に聞いて、転寝《うたたね》の夢を驚かさる。
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白望《しろみ》の山続きに離森《はなれもり》と云う所あり。その小字《こあざ》に長者屋敷と云うは、全く無人《ぶじん》の境なり。茲《ここ》に行《ゆ》きて炭を焼く者ありき。或夜《あるよ》その小屋の垂菰《たれこも》をかかげて、内を覗《うかが》う者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫声を聞くことは、珍しからず。
佐々木氏の祖父の弟、白望に茸《きのこ》を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大《おおい》なる森林の前を横ぎりて女の走り行くを見たり。中空《なかぞら》を走る様に思われたり。待てちゃアと二声ばかり呼ばりたるを聞けりとぞ。
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修羅の巷《ちまた》を行くものの、魔界の姿見るがごとし。この種の事は自分実地に出あいて、見も聞きもしたる人他国にも間々あらんと思う。われ等もしばしば伝え聞けり。これと事柄は違えども、神田の火事も十里を隔てて幻にその光景を想う時は、おどろおどろしき気勢《けはい》の中に、ふと女の叫ぶ声す。両国橋の落ちたる話も、まず聞いて耳に響くはあわれなる女の声の――人雪頽《ひとなだれ》を打って大川の橋杭《はしぐい》を落ち行く状《さま》
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