に染みて、
「私が居《い》るから恐くはないよ。」
「ですから、こうやって、こうやって居れば恐くはないのでございます。」
思わず背《せな》に手をかけながら、謙造は仰いで額を見た。
雨の滴々《したたり》しとしとと屋根を打って、森の暗さが廂《ひさし》を通し、翠《みどり》が黒く染込《しみこ》む絵の、鬼女《きじょ》が投げたる被《かずき》を背《せ》にかけ、わずかに烏帽子《えぼし》の頭《かしら》を払《はら》って、太刀《たち》に手をかけ、腹巻したる体《たい》を斜《なな》めに、ハタと睨《にら》んだ勇士の面《おもて》。
と顔を合わせて、フトその腕《かいな》を解いた時。
小松に触《さわ》る雨の音、ざらざらと騒がしく、番傘《ばんがさ》を低く翳《かざ》し、高下駄《たかげた》に、濡地《ぬれつち》をしゃきしゃきと蹈《ふ》んで、からずね二本、痩せたのを裾端折《すそはしょり》で、大股《おおまた》に歩行《ある》いて来て額堂へ、頂《いただき》の方の入口から、のさりと入ったものがある。
八
「やあ、これからまたお出《いで》かい。」
と腹の底から出るような、奥底のない声をかけて、番傘を横に開いて、出した顔は見知越《みしりごし》。一昨日《おととい》もちょっと顔を合わせた、峰《みね》の回向堂の堂守で、耳には数珠《じゅず》をかけていた。仁右衛門《にえもん》といって、いつもおんなじ年の爺《おやじ》である。
その回向堂は、また庚申堂《こうしんどう》とも呼ぶが、別に庚申を祭ったのではない。さんぬる天保《てんぽう》庚申年に、山を開いて、共同墓地にした時に、居まわりに寺がないから、この御堂《みどう》を建立《こんりゅう》して、家々の位牌《いはい》を預ける事にした、そこで回向堂とも称《とな》うるので、この堂守ばかり、別に住職《じゅうしょく》の居室《いま》もなければ、山法師《やまぼうし》も宿らぬのである。
「また、東京へ行きますから、もう一度と思って来ました。」
と早、離れてはいたが、謙造は傍《かたわら》なる、手向《たむけ》にあらぬ花の姿に、心置かるる風情《ふぜい》で云った。
「よく、参らっしゃる、ちとまた休んでござれ。」
「ちょっと休まして頂くかも知れません。爺《じい》さんは、」
「私《わし》かい。講中にちっと折込《おれこ》みがあって、これから通夜《つや》じゃ、南無妙《なむみょう》、」
と口をむぐむぐさしたが、
「はははは、私《わし》ぐらいの年の婆《ばあ》さまじゃ、お目出たい事いの。位牌になって嫁入《よめい》りにござらっしゃる、南無妙。戸は閉めてきたがの、開けさっしゃりませ、掛金《かけがね》も何にもない、南無妙、」
と二人を見て、
「ははあ、傘《かさ》なしじゃの、いや生憎《あいにく》の雨、これを進ぜましょ。持ってござらっしゃい。」
とばッさり窄《すぼ》める。
「何、構やしないよ。」
「うんにゃよ、お前さまは構わっしゃらいでも、はははは、それ、そちらの※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、312−5]《ねえ》さんが濡れるわ、さあさあ、ささっしゃい。」
「済みませんねえ、」
と顔を赤らめながら、
「でも、お爺さん、あなたお濡れなさいましょう。」
「私は濡れても天日《てんぴ》で干すわさ。いや、またまこと困れば、天神様の神官殿別懇《かんぬしどのべっこん》じゃ、宿坊《しゅくぼう》で借りて行く……南無妙、」
と押《おっ》つけるように出してくれる。
捧《ささ》げるように両手で取って、
「大助《おおだすか》りです、ここに雨やみをしているもいいが、この人が、」
と見返って、莞爾《にっこり》して、
「どうも、嬰児《ねんね》のように恐がって、取って食われそうに騒ぐんで、」
と今の姿を見られたろう、と極《きまり》の悪さにいいわけする。
お君は俯向《うつむ》いて、紫《むらさき》の半襟《はんえり》の、縫《ぬい》の梅《うめ》を指でちょいと。
仁右衛門《にえもん》、はッはと笑い、
「おお、名物の梟かい。」
「いいえ、それよりか、そのもみじ狩《がり》の額の鬼が、」
「ふむ、」
と振仰いで、
「これかい、南無妙。これは似たような絵じゃが、余吾将軍維茂《よごしょうぐんこれもち》ではない。見さっしゃい。烏帽子素袍大紋《えぼしすおうだいもん》じゃ。手には小手《こて》、脚《あし》にはすねあてをしているわ……大森彦七《おおもりひこしち》じゃ。南無妙、」
と豊かに目を瞑《つぶ》って、鼻の下を長くしたが、
「山頬《やまぎわ》の細道を、直様《すぐさま》に通るに、年の程十七八|計《ばかり》なる女房《にょうぼう》の、赤き袴に、柳裏《やなぎうら》の五衣《いつつぎぬ》着て、鬢《びん》深《ふか》く鍛《そ》ぎたるが、南無妙。
山の端《は》の月に映《えい》じて、ただ独り
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