女《なになにしんにょ》、そこで、これへ、媽々《かかあ》の戒名を、と父親《おやじ》が燈籠を出した時。
(母様《おっかさん》のは、)と傍《そば》に畏《かしこま》った私を見て、
(謙ちゃんが書くんですよ、)
とそう云っておくんなすってね、その机の前へ坐らせて、」
と云う時、謙造は声が曇った。
「すらりと立って、背後《うしろ》から私の手を柔《やわら》かく筆を持添えて……
おっかさん、と仮名《かな》で書かして下さる時、この襟《えり》へ、」
と、しっかりと腕を組んで、
「はらはらと涙《なみだ》を落しておくんなすった。
父親《おやじ》は墨《すみ》をすりながら、伸上《のびあが》って、とその仮名を読んで……
おっかさん、」
いいかけて謙造は、ハッと位牌堂の方を振向いてぞっとした。自分の胸か、君子の声か、幽《かすか》に、おっかさんと響いた。
ヒイと、堪《こら》えかねてか、泣く声して、薄暗がりを一つあおって、白い手が膝の上へばたりと来た。
突俯《つッぷ》したお君が、胸の苦しさに悶《もだ》えたのである。
その手を取って、
「それだもの、忘《わ》、忘《わす》れるもんか。その時の、幻が、ここに残って、私の目に見えたんだ。
ね、だからそれが記念《かたみ》なんだ。お君さん、母様《おっかさん》の顔が見えたでしょう、見えたでしょう。一心におなんなさい、私がきっと請合《うけあ》う、きっと見える。可哀相《かわいそう》に、名、名も知らんのか。」
と云って、ぶるぶると震《ふる》える手を、しっかと取った。が、冷いので、あなやと驚《おどろ》き、膝を突《つッ》かけ、背《せな》を抱《いだ》くと、答えがないので、慌《あわ》てて、引起して、横抱きに膝へ抱《いだ》いた。
慌《あわただ》しい声に力を籠《こ》めつつ、
「しっかりおし、しっかりおし、」
と涙ながら、そのまま、じっと抱《だき》しめて、
「母様《おっかさん》の顔は、※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、326−15]《ねえ》さんの姿は、私の、謙造の胸にある!」
とじっと見詰《みつ》めると、恍惚《うっとり》した雪のようなお君の顔の、美しく優しい眉《まゆ》のあたりを、ちらちらと蝶《ちょう》のように、紫の影が行交《ゆきか》うと思うと、菫《すみれ》の薫《かおり》がはっとして、やがて縋《すが》った手に力が入った。
前へ
次へ
全24ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング