二

「何だ、もう帰ったのか。」
「ええ、」
「だってお気の毒様だと云《い》うじゃないか。」
「ほんとに性急《せっかち》でいらっしゃるよ。誰も帰ったとも何とも申上げはしませんのに。いいえ、そうじゃないんですよ。お気の毒様だと申しましたのは、あなたはきっと美しい※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、286−4]《ねえ》さんだと思っておいでなさいましょう。でしょう、でしょう。
 ところが、どうして、跛《びっこ》で、めっかちで、出尻《でっちり》で、おまけに、」
 といいかけて、またフンと嗅《か》いで、
「ほんとにどうしたら、こんな良《い》い匂《におい》が、」
 とひょいと横を向いて顔を廊下《ろうか》へ出したと思うと、ぎょッとしたように戸口を開いて、斜《はす》ッかけに、
「あら、まあ!」
「お伺《うかが》い下すって?」
 と内端《うちわ》ながら判然《はっきり》とした清《すずし》い声が、壁《かべ》に附《つ》いて廊下で聞える。
 女中はぼッとした顔色《かおつき》で、
「まあ!」
「お帳場にお待ち申しておりましたんですけれども、おかみさんが二階へ行っていいから、とそうおっしゃって下さいましたもんですから……」
 と優容《しとやか》な物腰《ものごし》。大概《たいがい》、莟《つぼみ》から咲《さ》きかかったまで、花の香《か》を伝えたから、跛も、めっかちも聞いたであろうに、仂《はした》なく笑いもせなんだ、つつましやかな人柄《ひとがら》である。
「お目にかかられますでしょうか。」
「ご勝手になさいまし。」
 くるりと入口へ仕切られた背中になると、襖の桟《さん》が外《はず》れたように、その縦縞《たてじま》が消えるが疾《はや》いか、廊下を、ばた、ばた、ばた、どたんなり。
「お入ンなさい、」
「は、」
 と幽《かす》かに聞いて、火鉢に手をかけ、入口をぐっと仰《あお》いで、優《やさし》い顔で、
「ご遠慮《えんりょ》なく……私は清川謙造です。」
 と念のために一ツ名乗る。
「ご免《めん》下さいまし、」
 はらりと沈《しず》んだ衣《きぬ》の音で、早《はや》入口へちゃんと両手を。肩がしなやかに袂の尖《さき》、揺《ゆ》れつつ畳《たたみ》に敷いたのは、藤《ふじ》の房《ふさ》の丈長《たけなが》く末濃《すえご》に靡《なび》いた装《よそおい》である。
 文金《ぶんきん》
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