なおさら可笑《おかし》がる。
 謙造は一向|真面目《まじめ》で、
「何という人だ。名札はあるかい。」
「いいえ、名札なんか用《い》りません。誰《だれ》も知らないもののない方でございます。ほほほ、」
「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らんじゃないか、どなただよ。」
 と眉《まゆ》を顰《ひそ》める。
「そんな顔をなすったってようございます。ちっとも恐《こわ》くはありませんわ。今にすぐにニヤニヤとお笑いなさろうと思って。昨夜《ゆうべ》あんなに晩《おそ》うくお帰りなさいました癖《くせ》に、」
「いや、」
 と謙造は片頬《かたほ》を撫《な》でて、
「まあ、いいから。誰だというに、取次がお前、そんなに待たしておいちゃ失礼だろう。」
 ちと躾《たしな》めるように言うと、一層|頬辺《ほっぺた》の色を濃《こ》くして、ますます気勢込《きおいこ》んで、
「何、あなた、ちっと待たして置きます方がかえっていいんでございますよ。昼間ッからあなた、何ですわ。」
 と厭《いや》な目つきでまたニヤリで、
「ほんとは夜来る方がいいんだのに。フン、フン、フン、」
 突然《いきなり》川柳《せんりゅう》で折紙《おりがみ》つきの、(あり)という鼻をひこつかせて、
「旦那、まあ、あら、まあ、あら良《い》い香《にお》い、何て香水《こうすい》を召《め》したんでございます。フン、」
 といい方が仰山《ぎょうさん》なのに、こっちもつい釣込《つりこ》まれて、
「どこにも香水なんぞありはしないよ。」
「じゃ、あの床の間の花かしら、」
 と一際《ひときわ》首を突込《つッこ》みながら、
「花といえば、あなたおあい遊ばすのでございましょうね、お通し申しましてもいいんですね。」
「串戯《じょうだん》じゃない。何という人だというに、」
「あれ、名なんぞどうでもよろしいじゃありませんか。お逢《あ》いなされば分るんですもの。」
「どんな人だよ、じれったい。」
「先方《さき》もじれったがっておりましょうよ。」
「婦人《おんな》か。」
 と唐突《だしぬけ》に尋《たず》ねた。
「ほら、ほら、」
 と袂《たもと》をその、ほらほらと煽《あお》ってかかって、
「ご存じの癖に、」
「どんな婦人だ。」
 と尋ねた時、謙造の顔がさっと暗くなった。新聞を窓《まど》へ翳《かざ》したのである。
「お気の毒様。」
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