彳《たたず》みたり。……これからよ、南無妙。
 女ちと打笑うて、嬉《うれ》しや候。さらば御桟敷《おんさじき》へ参り候《そうら》わんと云いて、跡《あと》に付きてぞ歩みける。羅綺《らき》にだも不勝姿《たえざるすがた》、誠《まこと》に物痛《ものいたわ》しく、まだ一足も土をば不蹈人《ふまざるひと》よと覚えて、南無妙。
 彦七|不怺《こらえず》、余《あまり》に露《つゆ》も深く候えば、あれまで負進《おいまいら》せ候わんとて、前に跪《ひざまず》きたれば、女房すこしも不辞《じせず》、便《びん》のう、いかにかと云いながら、やがて後《うしろ》にぞ靠《よりかか》りける、南無妙。
 白玉か何ぞと問いし古《いにし》えも、かくやと思知《おもいしら》れつつ、嵐《あらし》のつてに散花《ちるはな》の、袖に懸《かか》るよりも軽やかに、梅花《ばいか》の匂《におい》なつかしく、蹈足《ふむあし》もたどたどしく、心も空に浮《うか》れつつ、半町《はんちょう》ばかり歩みけるが、南無妙。
 月すこし暗かりける処にて、南無妙、さしも厳《いつく》しかりけるこの女房、南無妙。」
 といいいい額堂を出ると、雨に濡らすまいと思ったか、数珠を取って。頂いて懐《ふところ》へ入れたが、身体《からだ》は平気で、石段、てく、てく。

     九

 ニ《フタツ》ノ眼《マナコ》ハ朱《シュ》ヲ解《トイ》テ。鏡ノ面《オモテ》ニ洒《ソソ》ゲルガゴトク。上下《ウエシタ》歯クイ違《チゴウ》テ。口脇《クチワキ》耳ノ根マデ広ク割《サ》ケ。眉《マユ》ハ漆《ウルシ》ニテ百入塗《モモシオヌリ》タルゴトクニシテ。額ヲ隠シ。振分髪《フリワケガミ》ノ中ヨリ。五寸計《ゴスンバカリ》ナル犢《コウシ》ノ角。鱗《ウロコ》ヲカズイテ生出《おいい》でた、長《たけ》八|尺《しゃく》の鬼が出ようかと、汗《あせ》を流して聞いている内、月チト暗カリケル処ニテ、仁右衛門が出て行った。まず、よし。お君は怯《おび》えずに済んだが、ひとえに梟の声に耳を澄まして、あわれに物寂《ものさびし》い顔である。
「さ、出かけよう。」
 と謙造はもうここから傘《からかさ》ばッさり。
「はい、あなた飛んだご迷惑《めいわく》でございます。」
「私はちっとも迷惑な事はないが、あなた、それじゃいかん。路《みち》はまだそんなでもないから、跣足《はだし》には及《およ》ぶまいが、裾をぐいとお上《あ》げ、構わず、」

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