「カチリ?……どうしたい。」
「お簪《かんざし》が抜けて落ちました音で。」
「簪が?……ちょっと。」
 名は呼びかねつつ注意する。
「いいえ。」
 婀娜《あで》な夫人が言った。
「ええ、滅相な……奥方様、唯今ではござりません。その当時の事で。……上方《かみがた》のお客が宵寐《よいね》が覚めて、退屈さにもう一風呂と、お出かけなさる障子際へ、すらすらと廊下を通って、大島屋のお桂様が。――と申すは、唯今の花、このお座敷、あるいはお隣に当りましょうか。お娘ごには叔父ごにならっしゃる、富沢町さんと申して両国の質屋の旦《だん》が、ちょっと異《おつ》な寸法のわかい御婦人と御楽《おたのし》み、で、大《おおき》いお上さんは、苦い顔をしてござったれど、そこは、長唄のお稽古ともだちか何かで、お桂様は、その若いのと知合でおいでなさる。そこへ――ここへでござります……貴女《あなた》のお座敷は、その時は別棟、向うの霞で。……こちらへ遊びに見えました。もし、そのお帰りがけなのでござりますて。
 上方の御老体が、それなり開けると出会頭《であいがしら》になります。出口が次の間で、もう床の入りました座敷の襖《ふすま》
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