申して、朝も早くから、その、(ぴい、ぷう。)と、橋を渡りましたり、路地を抜けましたり。……それが死にましてからはな、川向うの芸妓屋《げいしゃや》道に、どんな三味線が聞えましても、お客様がたは、按摩の笛というものをお聞きになりますまいでござります。何のまた聞えずともではござりますがな。――へい、いえ、いえそのままでお宜《よろ》しゅう……はい。
 そうした貴方様、勉強家でござりました癖に、さて、これが療治に掛《かか》りますと、希代にのべつ、坐睡《いねむり》をするでござります。古来、姑《しゅうとめ》の目ざといのと、按摩の坐睡は、遠島ものだといたしたくらいなもので。」
 とぱちぱちぱちと指を弾《はじ》いて、
「わしども覚えがござります。修業中小僧のうちは、またその睡《ねむ》い事が、大蛇を枕でござりますて。けれども小一のははげしいので……お客様の肩へつかまりますと、――すぐに、そのこくりこくり。……まず、そのために生命《いのち》を果しましたような次第でござりますが。」
「何かい、歩きながら、川へ落《おっ》こちでもしたのかい。」
「いえ、それは、身投《みなげ》で。」
「ああ、そうだ、――こっちが坐睡をしやしないか。じゃ、客から叱言《こごと》が出て、親方……その師匠にでも叱られたためなんだな。」
「……不断の事で……師匠も更《あらた》めて叱言を云うがものはござりません。それに、晩も夜中も、坐睡ってばかりいると申すでもござりませんでな。」
「そりゃそうだろう――朝から坐睡っているんでは、半分死んでいるのも同《おんな》じだ。」
 と欣七郎は笑って言った。
「春秋の潮時でもござりましょうか。――大島屋の大きいお上《かみ》が、半月と、一月、ずッと御逗留《ごとうりゅう》の事も毎度ありましたが、その御逗留中というと、小一の、持病の坐睡がまた激しく起ります。」
「ふ――」
 と云って、欣七郎はお桂ちゃんの雪の頸許《えりもと》に、擽《くすぐ》ったそうな目を遣《や》った。が、夫人は振向きもしなかった。
「ために、主な出入場《でいりば》の、御当家では、方々のお客さんから、叱言が出ます。かれこれ、大島屋さんのお耳にも入りますな、おかみさんが、可哀相な盲小僧だ。……それ、十六七とばかり御承知で……肥満《こえふと》って身体《からだ》が大《おおき》いから、小按摩一人肩の上で寝た処で、蟷螂《かまぎっちょ》が留まったほどにも思わない。冥利《みょうり》として、ただで、お銭《あし》は遣れないから、肩で船を漕《こ》いでいなと、毎晩のように、お慈悲で療治をおさせになりました。……ところが旦那。」
 と暗い方へ、黒い口を開けて、一息して、
「どうも意固地《いこじ》な……いえ、不思議なもので、その時だけは小按摩が決して坐睡をいたさないでござります。」
「その、おかみさんには電気でもあったのかな。」
「へ、へ、飛んでもない。おかみさんのお傍《そば》には、いつも、それはそれは綺麗な、お美しいお嬢さんが、大好きな、小説本を読んでいるのでござります。」
「娘ッ子が読むんじゃあ、どうせ碌《ろく》な小説じゃあるまいし、碌な娘ではないのだろう。」
「勿体《もったい》ない。――香都良川には月がある、天城山《あまぎやま》には雪が降る、井菊の霞に花が咲く、と土地ではやしましたほどのお嬢さんでござりますよ。」
「按摩さん、按摩さん。」
 と欣七郎が声を刻んだ。
「は、」
「きみも土地じゃ古顔だと云うが。じゃあ、その座敷へも呼ばれただろうし、療治もしただろうと思うが、どうだね。」
「は、それが、つい、おうわさばかり伺いまして、お療治はいたしません、と申すが、此屋《こちら》様なり、そのお座敷は、手前同業の正斎と申す……河豚《ふぐ》のようではござりますが、腹に一向の毒のない男が持分に承っておりましたので、この正斎が、右の小一の師匠なのでござりまして。」
「成程、しかし狭い土地だ。そんなに逗留をしているうちには、きみなんか、その娘ッ子なり、おかみさんを、途中で見掛けた――いや、これは失礼した、見えなかったね。」
「旦那、口幅《くちはば》っとうはござりますが、目で見ますより聞く方が確《たしか》でござります。それに、それお通りだなどと、途中で皆がひそひそ遣ります処へ出会いますと、芬《ぷん》とな、何とも申されません匂が。……温泉から上りまして、梅の花をその……嗅《か》ぎますようで、はい。」
 座には今、その白梅よりやや淡青《うすあお》い、春の李《すもも》の薫《かおり》がしたろう。
 うっかり、ぷんと嗅いで、
「不躾《ぶしつ》け。」
 と思わずしゃべった。
「その香の好《よ》さと申したら、通りすがりの私どもさえ、寐《ね》しなに衣《き》ものを着換えましてからも、身うちが、ほんのりと爽《さわや》いで、一晩、極楽天上の夢を見た
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