、
「カチリ?……どうしたい。」
「お簪《かんざし》が抜けて落ちました音で。」
「簪が?……ちょっと。」
名は呼びかねつつ注意する。
「いいえ。」
婀娜《あで》な夫人が言った。
「ええ、滅相な……奥方様、唯今ではござりません。その当時の事で。……上方《かみがた》のお客が宵寐《よいね》が覚めて、退屈さにもう一風呂と、お出かけなさる障子際へ、すらすらと廊下を通って、大島屋のお桂様が。――と申すは、唯今の花、このお座敷、あるいはお隣に当りましょうか。お娘ごには叔父ごにならっしゃる、富沢町さんと申して両国の質屋の旦《だん》が、ちょっと異《おつ》な寸法のわかい御婦人と御楽《おたのし》み、で、大《おおき》いお上さんは、苦い顔をしてござったれど、そこは、長唄のお稽古ともだちか何かで、お桂様は、その若いのと知合でおいでなさる。そこへ――ここへでござります……貴女《あなた》のお座敷は、その時は別棟、向うの霞で。……こちらへ遊びに見えました。もし、そのお帰りがけなのでござりますて。
上方の御老体が、それなり開けると出会頭《であいがしら》になります。出口が次の間で、もう床の入りました座敷の襖《ふすま》は暗し、また雪と申すのが御存じの通り、当館切っての北国《ほっこく》で、廊下も、それは怪《け》しからず陰気だそうでござりますので、わしどもでも手さぐりでヒヤリとします。暗い処を不意に開けては、若いお娘ご、吃驚《びっくり》もなさろうと、ふと遠慮して立たっせえた。……お通りすがりが、何とも申されぬいい匂で、その香をたよりに、いきなり、横合の暗がりから、お白い頸《えり》へ噛《かじ》りついたものがござります。」……
「…………」
「声はお立てになりません、が、お桂様が、少し屈《かが》みなりに、颯《さっ》と島田を横にお振りなすった、その時カチリと音がしました。思わず、えへんと咳《せき》をして、御老体が覗《のぞ》いてござった障子の破れめへそのまま手を掛けて、お開けなさると、するりと向うへ、お桂様は庭の池の橋がかりの上を、両袖を合せて、小刻みにおいでなさる。蝙蝠《こうもり》だか、蜘蛛だか、奴《やっこ》は、それなり、その角の片側の寝具部屋《やぐべや》へ、ごそりとも言わず消えたげにござりますがな。
確《たしか》に、カチリと、簪《かんざし》の落ちた音。お拾いなすった間もなかったがと、御老体はお目敏《めざと
前へ
次へ
全24ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング