印度更紗
泉鏡花
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鸚鵡《おうむ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)実際|蔦《つた》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+發」、123−4]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ちら/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
一
「鸚鵡《おうむ》さん、しばらくね……」
と真紅《しんく》へ、ほんのりと霞《かすみ》をかけて、新しい火の※[#「火+發」、123−4]《ぱっ》と移る、棟瓦《むねがわら》が夕舂日《ゆうづくひ》を噛《か》んだ状《さま》なる瓦斯暖炉《がすだんろ》の前へ、長椅子《ながいす》を斜《ななめ》に、ト裳《もすそ》を床《ゆか》。上草履《うわぞうり》の爪前《つまさき》細く※[#「女+島」の「山」に代えて「衣」、123−5]娜《たおやか》に腰を掛けた、年若き夫人が、博多の伊達巻《だてまき》した平常着《ふだんぎ》に、お召《めし》の紺《こん》の雨絣《あまがすり》の羽織ばかり、繕《つくろ》はず、等閑《なおざり》に引被《ひっか》けた、其《そ》の姿は、敷詰《しきつ》めた絨氈《じゅうたん》の浮出《うきい》でた綾《あや》もなく、袖《そで》を投げた椅子の手の、緑の深さにも押沈《おししず》められて、消えもやせむと淡かつた。けれども、美しさは、夜《よる》の雲に暗く梢《こずえ》を蔽《おお》はれながら、もみぢの枝の裏透《うらす》くばかり、友染《ゆうぜん》の紅《くれない》ちら/\と、櫛巻《くしまき》の黒髪の濡色《ぬれいろ》の露《つゆ》も滴《したた》る、天井高き山の端《は》に、電燈の影白うして、揺《ゆら》めく如き暖炉の焔《ほのお》は、世に隠れたる山姫《やまひめ》の錦《にしき》を照らす松明《たいまつ》かと冴《さ》ゆ。
博士《はかせ》が旅行《たび》をした後《あと》に、交際《つきあい》ぎらひで、籠勝《こもりが》ちな、此《こ》の夫人が留守した家は、まだ宵《よい》の間《ま》も、実際|蔦《つた》の中に所在《ありか》の知《し》るゝ山家《やまが》の如き、窓明《まどあかり》。
広い住居《すまい》の近所も遠し。
久しぶりで、恁《こ》うして火を置かせたまゝ、気に入りの小間使さへ遠ざけて、ハタと扉《ひらき》を閉《とざ》した音が、谺《こだま》するまで響いたのであつた。
夫人は、さて唯《ただ》一人、壁に寄せた塗棚《ぬりだな》に据置《すえお》いた、籠《かご》の中なる、雪衣《せつい》の鸚鵡《おうむ》と、差向《さしむか》ひに居るのである。
「御機嫌よう、ほゝゝ、」
と莟《つぼみ》を含んだ趣《おもむき》して、鸚鵡の雪に照添《てりそ》ふ唇……
籠は上に、棚の丈《たけ》稍《やや》高ければ、打仰《うちあお》ぐやうにした、眉《まゆ》の優しさ。鬢《びん》の毛はひた/\と、羽織の襟《えり》に着きながら、肩も頸《うなじ》も細かつた。
「まあ、挨拶《あいさつ》もしないで、……黙然《だんまり》さん。お澄ましですこと。……あゝ、此の間《あいだ》、鳩《はと》にばツかり構つて居たから、お前さん、一寸《ちょいと》お冠《かんむり》が曲りましたね。」
此の五日《いつか》六日《むいか》、心持《こころもち》煩《わずら》はしければとて、客にも逢《あ》はず、二階の一室《ひとま》に籠りツ切《きり》、で、寝起《ねおき》の隙《ひま》には、裏庭の松の梢《こずえ》高き、城のもの見のやうな窓から、雲と水色の空とを観《み》ながら、徒然《つれづれ》にさしまねいて、蒼空《あおぞら》を舞ふ遠方《おちかた》の伽藍《がらん》の鳩を呼んだ。――真白なのは、掌《てのひら》へ、紫《むらさき》なるは、かへして、指環の紅玉《ルビイ》の輝く甲《こう》へ、朱鷺色《ときいろ》と黄の脚《あし》して、軽く来て留《とま》るまでに馴《な》れたのであつた。
「それ/\、お冠の通り、嘴《くちばし》が曲つて来ました。目をくる/\……でも、矢張《やっぱ》り可愛《かわい》いねえ。」
と艶麗《あでやか》に打傾《うちかたむ》き、
「其の替り、今ね、寝ながら本を読んで居て、面白い事があつたから、お話をして上げようと思つて、故々《わざわざ》遊びに来たんぢやないか。途中が寒かつたよ。」
と、犇《ひし》と合はせた、両袖《りょうそで》堅《かた》く緊《しま》つたが、溢《こぼ》るゝ蹴出《けだ》し柔かに、褄《つま》が一靡《ひとなび》き落着いて、胸を反《そ》らして、顔を引き、
「否《いいえ》、まだ出して上げません。……お話を聞かなくツちや……でないと袖を啣《くわ》へたり、乗つたり、悪戯《いたずら》をして邪魔《じゃま》なんですもの。
お聞きなさいよ。
可《い》いかい、お聞きなさいよ。
まあ、ねえ。
座敷は――こんな貸家建《かしやだて》ぢやありません。壁も、床も、皆|彩色《さいしき》した石を敷いた、明放《あけはな》した二階の大広間、客室《きゃくま》なんです。
外面《おもて》の、印度《インド》洋に向いた方の、大理石の廻《まわ》り縁《えん》には、軒《のき》から掛けて、床《ゆか》へ敷く……水晶の簾《すだれ》に、星の数々|鏤《ちりば》めたやうな、ぎやまんの燈籠《とうろう》が、十五、晃々《きらきら》点《つ》いて並んで居ます。草花《くさばな》の絵の蝋燭《ろうそく》が、月の桂《かつら》の透くやうに。」
と襟《えり》を圧《おさ》へた、指の先。
二
引合《ひきあ》はせ、又|袖《そで》を当て、
「丁《ちょう》ど、まだ灯《あかし》を入れたばかりの暮方《くれがた》でね、……其の高楼《たかどの》から瞰下《みお》ろされる港口《みなとぐち》の町通《まちどおり》には、焼酎売《しょうちゅううり》だの、雑貨屋だの、油売《あぶらうり》だの、肉屋だのが、皆|黒人《くろんぼ》に荷車を曳《ひ》かせて、……商人《あきんど》は、各自《てんでん》に、ちやるめらを吹く、さゝらを摺《す》る、鈴《ベル》を鳴らしたり、小太鼓を打つたり、宛然《まるで》お神楽《かぐら》のやうなんですがね、家《うち》が大《おおき》いから、遠くに聞えて、夜中の、あの魔もののお囃子《はやし》見たやうよ、……そして車に着いた商人《あきんど》の、一人々々、穂長《ほなが》の槍《やり》を支《つ》いたり、担《かつ》いだりして行《ゆ》く形が、ぞろ/\影のやうに黒いのに、椰子《やし》の樹《き》の茂つた上へ、どんよりと黄色に出た、月の明《あかり》で、白刃《しらは》ばかりが、閃々《ぴかぴか》、と稲妻《いなずま》のやうに行交《ゆきか》はす。
其の向うは、鰐《わに》の泳ぐ、可恐《おそろし》い大河《おおかわ》よ。……水上《みなかみ》は幾千里《いくせんり》だか分らない、天竺《てんじく》のね、流沙河《りゅうさがわ》の末《すえ》だとさ、河幅が三里の上、深さは何百尋《なんびゃくひろ》か分りません。
船のある事……帆柱《ほぼしら》に巻着《まきつ》いた赤い雲は、夕日の余波《なごり》で、鰐の口へ血の晩御飯を注込《つぎこ》むんだわね。
時は十二月なんだけれど、五月のお節句の、此《これ》は鯉《こい》、其《それ》は金銀の糸の翼、輝く虹《にじ》を手鞠《てまり》にして投げたやうに、空を舞つて居た孔雀《くじゃく》も、最《も》う庭へ帰つて居るの……燻占《たきし》めはせぬけれど、棚に飼つた麝香猫《じゃこうねこ》の強い薫《かおり》が芬《ぷん》とする……
同《おなじ》やうに吹通《ふきとお》しの、裏は、川筋を一つ向うに、夜中は尾長猿《おながざる》が、キツキと鳴き、カラ/\カラと安達《あだち》ヶ|原《はら》の鳴子《なるこ》のやうな、黄金蛇《こがねへび》の声がする。椰子《やし》、檳榔子《びんろうじ》の生え茂つた山に添つて、城のやうに築上《つきあ》げた、煉瓦造《れんがづくり》がづらりと並んで、矢間《やざま》を切つた黒い窓から、弩《いしびや》の口がづん、と出て、幾つも幾つも仰向《あおむ》けに、星を呑《の》まうとして居るのよ……
和蘭《オランダ》人の館《やかた》なんです。
其の一《ひとつ》の、和蘭館《オランダかん》の貴公子と、其の父親の二人が客で。卓子《テエブル》の青い鉢、青い皿を囲んで向合《むきあ》つた、唐人《とうじん》の夫婦が二人。別に、肩には更紗《さらさ》を投掛《なげか》け、腰に長剣を捲《ま》いた、目の鋭い、裸《はだか》の筋骨《きんこつ》の引緊《ひきしま》つた、威風の凜々《りんりん》とした男は、島の王様のやうなものなの……
周囲《まわり》に、可《い》いほど間《ま》を置いて、黒人《くろんぼ》の召使が三人で、謹《つつし》んで給仕に附いて居る所。」
と俯目《ふしめ》に、睫毛《まつげ》濃く、黒棚《くろだな》の一《ひと》ツの仕劃《しきり》を見た。袖口《そでぐち》白く手を伸《の》べて、
「あゝ、一人|此処《ここ》に居たよ。」
と言ふ。天窓《あたま》の大きな、頤《あご》のしやくれた、如法玩弄《にょほうおもちゃ》の焼《やき》ものの、ペロリと舌で、西瓜《すいか》喰《く》ふ黒人《くろんぼ》の人形が、ト赤い目で、額《おでこ》で睨《にら》んで、灰色の下唇《したくちびる》を反《そ》らして突立《つった》つ。
「……余り謹《つつし》んでは居ないわね……一寸《ちょいと》、お話の中へ出ておいで。」
と手を掛けると、ぶるりとした、貧乏動《びんぼうゆる》ぎと云ふ胴揺《どうゆす》りで、ふてくされにぐら/\と拗身《すねみ》に震ふ……はつと思ふと、左の足が股《もも》のつけもとから、ぽきりと折れて、ポンと尻持《しりもち》を支《つ》いた体《てい》に、踵《かかと》の黒いのを真向《まむ》きに見せて、一本ストンと投出《なげだ》した、……恰《あたか》も可《よし》、他《ほか》の人形など一所《いっしょ》に並んだ、中に交《まじ》つて、其処《そこ》に、木彫にうまごやしを萌黄《もえぎ》で描《か》いた、舶来ものの靴が片隻《かたっぽ》。
で、肩を持たれたまゝ、右の跛《びっこ》の黒《くろ》どのは、夫人の白魚《しらうお》の細い指に、ぶらりと掛《かか》つて、一《ひと》ツ、ト前のめりに泳いだつけ、臀《いしき》を揺《ゆす》つた珍《ちん》な形で、けろりとしたもの、西瓜をがぶり。
熟《じっ》と視《み》て、
「まあ……」
離すと、可《い》いことに、あたり近所の、我朝《わがちょう》の姉様《あねさま》を仰向《あおむけ》に抱込《だきこ》んで、引《ひっ》くりかへりさうで危《あぶな》いから、不気味らしくも手からは落さず……
「島か、光《みつ》か、払《はたき》を掛けて――お待ちよ、否《いいえ》、然《そ》う/\……矢張《やっぱり》これは、此の話の中で、鰐《わに》に片足|食切《くいき》られたと云ふ土人か。人殺しをして、山へ遁《に》げて、大木《たいぼく》の梢《こずえ》へ攀《よ》ぢて、枝から枝へ、千仭《せんじん》の谷《たに》を伝はる処《ところ》を、捕吏《とりて》の役人に鉄砲で射《い》られた人だよ。
ねえ鸚鵡《おうむ》さん。」
と、足を継《つ》いで、籠《かご》の傍《わき》へ立掛《たてか》けた。
鸚鵡の目こそ輝いた。
三
「あんな顔をして、」
と夫人は声を沈めたが、打仰《うちあお》ぐやうに籠を覗《のぞ》いた。
「お前さん、お知己《ちかづき》ぢやありませんか。尤《もっと》も御先祖の頃だらうけれど――其の黒人《くろんぼ》も……和蘭陀《オランダ》人も。」
で、木彫の、小さな、護謨細工《ゴムざいく》のやうに柔かに襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]《ひだ》の入つた、靴をも取つて籠の前に差置《さしお》いて、
「此のね、可愛らしいのが、其の時の、和蘭陀館《オランダやかた》の貴公子ですよ。御覧、――お待ちなさいよ。恁《こ》うして並べたら、何だか、もの足りないから。」
フト夫人は椅子を立つたが、前に挟んだ伊達巻《だてまき》の端をキウと緊《し》めた。絨氈《じゅうたん》を運ぶ上靴
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