は、雪に南天《なんてん》の実《み》の赤きを行く……
書棚を覗《のぞ》いて奥を見て、抽出《ぬきだ》す論語の第一巻――邸《やしき》は、置場所のある所とさへ言へば、廊下の通口《かよいぐち》も二階の上下《うえした》も、ぎつしりと東西の書もつの揃《そろ》つた、硝子戸《がらすど》に突当《つきあた》つて其から曲る、……本箱の五《いつ》ツ七《なな》ツが家の五丁目七丁目で、縦横《じゅうおう》に通ずるので。……こゝの此の書棚の上には、花は丁《ちょう》ど挿《さ》してなかつた、――手附《てつき》の大形の花籠《はなかご》と並べて、白木《しらき》の桐《きり》の、軸ものの箱が三《み》ツばかり。其の真中の蓋《ふた》の上に……
恁《こ》う仰々《ぎょうぎょう》しく言出《いいだ》すと、仇《かたき》の髑髏《しゃれこうべ》か、毒薬の瓶《びん》か、と驚かれよう、真個《まったく》の事を言ひませう、さしたる儀でない、紫《むらさき》の切《きれ》を掛けたなりで、一|尺《しゃく》三|寸《ずん》、一口《ひとふり》の白鞘《しらさや》ものの刀がある。
と黒目勝《くろめがち》な、意味の深い、活々《いきいき》とした瞳《ひとみ》に映ると、何思ひけむ、紫ぐるみ、本に添へて、すらすらと持つて椅子に帰つた。
其だけで、身の悩ましき人は吻《ほっ》と息する。
「さあ、此の本が、唐土《もろこし》の人……揃つたわね、主人も、客も。
而《そ》して鰐《わに》の晩飯時分、孔雀《くじゃく》のやうな玉《たま》の燈籠《とうろう》の裡《うち》で、御馳走《ごちそう》を会食して居る……
一寸《ちょいと》、其の高楼《たかどの》を何処《どこ》だと思ひます……印度《インド》の中のね、蕃蛇剌馬《ばんじゃらあまん》……船着《ふなつき》の貿易所、――お前さんが御存じだよ、私よりか、」
と打微笑《うちほほえ》み、
「主人《しゅじん》は、支那《しな》の福州《ふくしゅう》の大商賈《おおあきんど》で、客は、其も、和蘭陀《オランダ》の富豪父子《かねもちおやこ》と、此の島の酋長《しゅうちょう》なんですがね、こゝでね、皆《みんな》がね、たゞ一《ひと》ツ、其だけに就《つ》いて繰返して話して居たのは、――此のね、酋長の手から買取つて、和蘭陀の、其の貴公子が、此の家《うち》へ贈りものにした――然《そ》うね、お前さんの、あの、御先祖と云ふと年寄染《としよりじ》みます、其の時分は少《わか》いのよ。出が王様の城だから、姫君の鸚鵡《おうむ》が一羽《いちわ》。
全身|緋色《ひいろ》なんだつて。……
此が、哥太寛《こたいかん》と云ふ、此家《ここ》の主人《あるじ》たち夫婦の秘蔵娘で、今年十八に成る、哥鬱賢《こうつけん》と云うてね、島第一の美しい人のものに成つたの。和蘭陀の公子は本望《ほんもう》でせう……実は其が望みだつたらしいから――
鸚鵡は多年|馴《な》らしてあつて、土地の言語は固《もと》よりだし、瓜哇《ジャワ》、勃泥亜《ボルネオ》の訛《なまり》から、馬尼剌《マニラ》、錫蘭《セイロン》、沢山《たんと》は未《ま》だなかつた、英吉利《イギリス》の語も使つて、其は……怜悧《りこう》な娘をはじめ、誰にも、よく解るのに、一《ひと》ツ人の聞馴《ききな》れない、不思議な言語《ことば》があつたんです。
以前の持主、二度目のはお取次《とりつぎ》、一人も仕込んだ覚えはないから、其の人たちは無論の事、港へ出入る、国々島々のものに尋ねても、まるつきし通じない、希有《けう》な文句を歌ふんですがね、検《しら》べて見ると、其が何なの、此の内へ来てから、はじまつたと分つたんです。
何かの折の御馳走に、哥太寛《こたいかん》が、――今夜だわね――其の人たちを高楼《たかどの》に招《まね》いて、話の折に、又其の事を言出《いいだ》して、鸚鵡《おうむ》の口真似もしたけれども、分らない文句は、鳥の声とばツかし聞えて、傍《そば》で聞く黒人《くろんぼ》たちも、妙な顔色《かおつき》で居る所……ね……
其処《そこ》へですよ、奥深く居て顔は見せない、娘の哥鬱賢《こうつけん》から、※[#「女+必」、第4水準2−5−45]《こしもと》が一人|使者《つかい》で出ました……」
四
「差出《さしで》がましうござんすが、お座興にもと存じて、お客様の前ながら、申上げます、とお嬢様、御口上《ごこうじょう》。――内に、日本《にっぽん》と云ふ、草毟《くさむしり》の若い人が居《お》りませう……ふと思ひ着きました。あのものをお召し遊ばし、鸚鵡の謎《なぞ》をお問合はせなさいましては如何《いかが》でせうか、と其の※[#「女+必」、第4水準2−5−45]《こしもと》が陳《の》べたんです。
鸚鵡は、尤《もっと》も、お嬢さんが片時《かたとき》も傍《そば》を離さないから、席へ出ては居なかつたの。
でね、此を聞くと、人の好《い》い、気の優しい、哥太寛の御新姐《ごしんぞ》が、おゝ、と云つて、袖《そで》を開《ひら》く……主人もはた、と手を拍《う》つて、」
とて、夫人は椅子なる袖に寄せた、白鞘《しらさや》を軽く圧《おさ》へながら、
「先刻《せんこく》より御覧に入れた、此なる剣《つるぎ》、と哥太寛の云つたのが、――卓子《テエブル》の上に置いた、蝋塗《ろうぬり》、鮫鞘巻《さめざやまき》、縁頭《ふちがしら》、目貫《めぬき》も揃《そろ》つて、金銀造りの脇差《わきざし》なんです――此の日本の剣《つるぎ》と一所《いっしょ》に、泯汰脳《ミンダネオ》の土蛮《どばん》が船に積んで、売りに参つた日本人を、三年|前《さき》に買取《かいと》つて、現に下僕《かぼく》として使ひまする。が、傍《そば》へも寄せぬ下働《したばたらき》の漢《おとこ》なれば、剣《つるぎ》は此処《ここ》にありながら、其の事とも存ぜなんだ。……成程《なるほど》、呼べ、と給仕を遣《や》つて、鸚鵡を此へ、と急いで嬢に、で、※[#「女+必」、第4水準2−5−45]《こしもと》を立たせたのよ。
たゞ玉《たま》の緒《お》のしるしばかり、髪は糸で結んでも、胡沙《こさ》吹く風は肩に乱れた、身は痩《や》せ、顔は窶《やつ》れけれども、目鼻立ちの凜《りん》として、口許《くちもと》の緊《しま》つたのは、服装《なり》は何《ど》うでも日本《やまと》の若草《わかくさ》。黒人《くろんぼ》の給仕に導かれて、燈籠《とうろう》の影へ顕《あらわ》れたつけね――主人の用に商売《あきない》ものを運ぶ節は、盗賊《どろぼう》の用心に屹《きっ》と持つ……穂長《ほなが》の槍《やり》をねえ、こんな場所へは出つけないから、突立《つきた》てたまゝで居るんぢやありませんか。
和蘭陀《オランダ》のは騒がなかつたが、蕃蛇剌馬《ばんじゃらあまん》の酋長《しゅうちょう》は、帯を手繰《たぐ》つて、長剣の柄《つか》へ手を掛けました。……此のお夥間《なかま》です……人の売買《うりかい》をする連中《れんじゅう》は……まあね、槍は給仕が、此も慌《あわ》てて受取つたつて。
静かに進んで礼をする時、牡丹《ぼたん》に八《や》ツ橋《はし》を架《か》けたやうに、花の中を廻り繞《めぐ》つて、奥へ続いた高楼《たかどの》の廊下づたひに、黒女《くろめ》の※[#「女+必」、第4水準2−5−45]《こしもと》が前後《あとさき》に三人|属《つ》いて、浅緑《あさみどり》の衣《きぬ》に同じ裳《も》をした……面《おもて》は、雪の香《か》が沈む……銀《しろがね》の櫛《くし》照々《てらてら》と、両方の鬢《びん》に十二枚の黄金《こがね》の簪《かんざし》、玉の瓔珞《ようらく》はら/\と、お嬢さん。耳鉗《みみわ》、腕釧《うでわ》も細い姿に、抜出《ぬけで》るらしく鏘々《しょうしょう》として……あの、さら/\と歩行《ある》く。
母親が曲※[#「碌のつくり」、第3水準1−84−27]《きょくろく》を立つて、花の中で迎へた処《ところ》で、哥鬱賢は立停《たちど》まつて、而《そ》して……桃の花の重《かさな》つて、影も染《そ》まる緋色の鸚鵡《おうむ》は、お嬢さんの肩から翼、飜然《ひらり》と母親の手に留《と》まる。其を持つて、卓子《テエブル》に帰つて来る間《ま》に、お嬢さんの姿は、※[#「女+必」、第4水準2−5−45]《こしもと》の三《みっ》ツの黒い中に隠れたんです。
鸚鵡は誰にも馴染《なじみ》だわね。
卓子《テエブル》の其処《そこ》へ、花片《はなびら》の翼を両方、燃立《もえた》つやうに。」
と云ふ。声さへ、其の色。暖炉《だんろ》の瓦斯《がす》は颯々《さっさつ》と霜夜《しもよ》に冴《さ》えて、一層|殷紅《いんこう》に、且《か》つ鮮麗《せんれい》なるものであつた。
「影を映した時でした……其の間《ま》に早《は》や用の趣《おもむき》を言ひ聞かされた、髪の長い、日本の若い人の、熟《じっ》と見るのと、瞳《ひとみ》を合せたやうだつたつて……
若い人の、窶《やつ》れ顔に、血の色が颯《さっ》と上《のぼ》つて、――国々島々、方々が、いづれもお分りのないとある、唯《ただ》一句、不思議な、短かい、鸚鵡の声と申すのを、私《わたくし》が先へ申して見ませう……もしや?……
――港で待つよ――
と、恁《こ》う申すのではござりませぬか、と言ひも未《ま》だ果てなかつたに、島の毒蛇《どくじゃ》の呼吸《いき》を消して、椰子《やし》の峰、鰐《わに》の流《ながれ》、蕃蛇剌馬《ばんじゃらあまん》の黄色な月も晴れ渡る、世にも朗《ほがら》かな涼《すず》しい声して、
――港で待つよ――
と、羽《はね》を靡《なび》かして、其の緋鸚鵡《ひおうむ》が、高らかに歌つたんです。
釵《かんざし》の揺《ゆら》ぐ気勢《けはい》は、彼方《あちら》に、お嬢さんの方にして……卓子《テエブル》の其の周囲《まわり》は、却《かえ》つて寂然《ひっそり》となりました。
たゞ、和蘭陀《オランダ》の貴公子の、先刻《さっき》から娘に通はす碧《あい》を湛《たた》へた目の美しさ。
はじめて鸚鵡に見返して、此の言葉よ、此の言葉よ!日本、と真前《まっさき》に云ひましたとさ。」
五
「真個《まったく》、其の言《ことば》に違はないもんですから、主人も、客も、座を正して、其のいはれを聞かうと云つたの。
――港で待つよ――
深夜に、可恐《おそろし》い黄金蛇《こがねへび》の、カラ/\と這《は》ふ時は、[#「、」は底本では「、、」]土蛮《どばん》でさへ、誰も皆耳を塞《ふさ》ぐ……其の時には何《ど》うか知らない……そんな果敢《はかな》い、一生|奴隷《どれい》に買はれた身だのに、一度も泣いた事を見ないと云ふ、日本の其の少《わか》い人は、今|其《そ》の鸚鵡の一言《ひとこと》を聞くか聞かないに、槍《やり》をそばめた手も恥かしい、ばつたり床《ゆか》に、俯向《うつむ》けに倒れて潸々《さめざめ》と泣くんです。
お嬢さんは、伸上《のびあが》るやうに見えたの。
涙を払つて――唯今の鸚鵡《おうむ》の声は、私《わたくし》が日本の地を吹流《ふきなが》されて、恁《こ》うした身に成ります、其の船出の夜中に、歴然《ありあり》と聞きました……十二一重《じゅうにひとえ》に緋の袴《はかま》を召させられた、百人一首と云ふ歌の本においで遊ばす、貴方方《あなたがた》にはお解りあるまい、尊い姫君の絵姿に、面影《おもかげ》の肖《に》させられた御方《おかた》から、お声がかりがありました、其の言葉に違ひありませぬ。いま赫耀《かくやく》とした鳥の翼を見ますると、射《い》らるゝやうに其の緋の袴が目に見えたのでこさります。――と此から話したの――其の時のは、船の女神《おんながみ》さまのお姿だつたんです。
若い人は筑前《ちくぜん》の出生《うまれ》、博多の孫一《まごいち》と云ふ水主《かこ》でね、十九の年、……七年前、福岡藩の米を積んだ、千六百|石《こく》の大船《たいせん》に、乗組《のりくみ》の人数《にんず》、船頭とも二十人、宝暦《ほうれき》午《うま》の年《とし》十月六日に、伊勢丸《いせまる》と云ふ其の新造《しんぞう》の乗初《のりぞめ》です。先《ま》づは滞《とどこお》りなく大阪へ――そ
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