りしを、このたびはじめて知りたるなり。西本の君の詣でたる、その日は霞の靉靆《たなび》きたりとよ。……音信《おとずれ》の来しは宵月なりけり。
あんころ餅
松任《まっとう》のついでなれば、そこに名物を云うべし。餅あり、あんころと云う。城下金沢より約三里、第一の建場《たてば》にて、両側の茶店軒を並べ、件《くだん》のあんころ餅を鬻《ひさ》ぐ……伊勢に名高き、赤福餅、草津のおなじ姥《うば》ヶ餅、相似たる類《たぐい》のものなり。
松任にて、いずれも売競うなかに、何某《なにがし》というあんころ、隣国他郷にもその名聞ゆ。ひとりその店にて製する餡《あん》、乾かず、湿らず、土用の中《うち》にても久しきに堪えて、その質を変えず、格別の風味なり。其家《そこ》のなにがし、遠き昔なりけん、村隣りに尋ぬるものありとて、一日《あるひ》宵のほどふと家を出でしがそのまま帰らず、捜すに処無きに至りて世に亡きものに極《きわま》りぬ。三年の祥月《しょうつき》命日の真夜中とぞ。雨強く風|烈《はげ》しく、戸を揺《ゆす》り垣を動かす、物凄《ものすさま》じく暴《あ》るる夜なりしが、ずどんと音して、風の中より屋の棟に下立《おりた》つものあり。ばたりと煽《あお》って自《おのず》から上に吹開く、引窓の板を片手に擡《もた》げて、倒《さかさま》に内を覗《のぞ》き、おくの、おくのとて、若き妻の名を呼ぶ。その人、面《おもて》青く、髯《ひげ》赤し。下に寝《い》ねたるその妻、さばかりの吹降りながら折からの蒸暑さに、いぎたなくて、掻巻《かいまき》を乗出でたる白き胸に、暖き息、上よりかかりて、曰く、汝《なんじ》の夫なり。魔道に赴きたれば、今は帰らず。されど、小児等《こどもら》も不便《ふびん》なり、活計《たつき》の術《すべ》を教うるなりとて、すなわち餡の製法を伝えつ。今はこれまでぞと云うままに、頸《くび》を入れてまた差覗くや、たちまち、黒雲を捲《ま》き小さくなりて空高く舞上る。傘《からかさ》の飛ぶがごとし。天赤かりしとや。天狗《てんぐ》相伝の餅というものこれなり。
いつぞやらん、その松任より、源平島、水島、手取川を越えて、山に入《い》る、辰口《たつのくち》という小さな温泉に行《ゆ》きて帰るさ、件《くだん》の茶屋に憩いて、児心《こどもごころ》に、ふと見たる、帳場にはあらず、奥の別なる小さき部屋に、黒髪の乱れたる、若き、色
前へ
次へ
全8ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング