似てもつかぬ。髮の艶々と黒いのと、色のうつくしく白い顏が、丈だちすらりとして、ほんのり見える。
 婦人が、いま時分、唯一人。
 およそ、積つても知れるが、前刻、旅館を出てから今になるまで、糸七は人影にも逢はなかつた。成程、くらやみの底を拔けば村の地へ足は着かう。が、一里あまり奧の院まで、曠野の杜を飛々に心覺えの家數は六七軒と數へて十に足りない、この心細い渺漠たる霧の中を何處へ吸はれて行くのであらう。里馴れたものといへば、たゞ遙々と畷を奧下りに連つた稻塚の數ばかりであるのに。――然も村里の女性の風情では斷じてない。
 霧は濡色の紗を掛けた、それを透いて、却つて柳の薄い朧に、霞んだ藍か、いや、淡い紫を掛けたやうな衣の彩織で、しつとりともう一枚羽織はおなじやうで、それよりも濃く黒いやうに見えた。
 時に、例の提灯である、それが膝のあたりだから、褄は消えた、而して、胸の帶が、空近くして猶且つ雲の底に隱れた月影が、其處にばかり映るやうに艶を消しながら白く光つた。
 唯、こゝで言ふのは、言ふのさへ、餘り町じみるが、あの背負揚とか言ふものゝ、灯の加減で映るのだらうか、ちら/\と……いや、霧が凝つたから、花片、緋の葉、然うは散らない、すツすツと細く、毛引の雁金を紅で描いたやうに提灯に映るのが、透通るばかり美しい。
「今晩は。」
 此の靜寂さ、いきなり聲をかけて行違つたら、耳元で雷……は威がありすぎる、それこそ梟が法螺を吹くほどに淑女を驚かさう、默つてぬつと出たら、狸が泳ぐと思はれよう。
 こゝは動かないで居るに限る。
 第一、あの提灯の小山のやうに明るくなるのを、熟として待つ筈だ。
 糸七は、嘗て熱海にも兩三度入湯した事があつて、同地に知己の按摩がある。療治が達しやで、すこし目が見える、夜話が實に巧い、職がらで夜戸出が多い、其のいろ/\な話であるが、先づ水口園の前の野原の眞中で夜なかであつた、茫々とした草の中から、足もとへ、むく/\と牛の突立つやうに起上つた大漢子が、いきなり鼻の先へ大きな握拳を突出した、「マツチねえか。」「身ぐるみ脱ぎます――あなたの前でございますが。……何、此の界隈トンネル工事の勞働しやが、醉拂つて寐ころがつて居た奴なんで。しかし、其の時は自分でも身に覺えて、ぐわた/\ぶる/\と震へましてな、へい。」まだある、新温泉の別莊へ療治に行つた皈りがけ、それが、眞夜中、
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