は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れて試《み》た。
 人の妻と、かかる術《すべ》して忍び合うには、疾《と》く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命《いのち》のないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命《いのち》よりは便《たより》にしたのであるが。
 こはいかに掌《たなそこ》は、徒《いたずら》に空《くう》を撫《な》でた。
 慌《あわただ》しく丁《ちょう》と目の前へ、一杯に十指を並べて、左右に暗《やみ》を掻探《かいさぐ》ったが、遮るものは何にもない。
 さては、暗《やみ》の中に暗をかさねて目を塞《ふさ》いだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、衝《つ》と今度は腕《かいな》を差出すようにしたが、それも手ばかり。
 はッと俯向《うつむ》き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。
 かっと逆上《のぼ》せて、堪《たま》らずぬっくり突立《つッた》ったが、南無三《なむさん》物音が、とぎょッとした。
 あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫《せきばく》として、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事|不省《ふせい》ならんとする、瞬間に異ならず。
 同時に真直《まっすぐ》に立った足許に、なめし皮の樺色《かばいろ》の靴、宿を欺くため座敷を抜けて持って入ったのが、向うむきに揃っていたので、立花は頭から悚然《ぞっ》とした。
 靴が左から……ト一ツ留《とま》って、右がその後から……ト前へ越すと、左がちょい、右がちょい。
 たとえば歩行の折から、爪尖《つまさき》を見た時と同じ状《さま》で、前途《ゆくて》へ進行をはじめたので、※[#「口+阿」、第4水準2−4−5]呀《あなや》と見る見る、二|間《けん》三|間《げん》。
 十間、十五間、一町、半、二町、三町、彼方《かなた》に隔るのが、どうして目に映るのかと、怪《あやし》む、とあらず、歩を移すのは渠《かれ》自身、すなわち立花であった。
 茫然《ぼうぜん》。
 世に茫然という色があるなら、四辺《あたり》の光景は正しくそれ。月もなく、日もなく、樹もなく、草もなく、路《みち》もない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似て冷《つ
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