るのであろう。ただそのままでは根から崩れて、海の方へ横倒れにならねばならぬ。
肩と首とで、うそうそと、斜めに小屋を差覗《さしのぞ》いて、
「ござるかいの、お婆さん。」
と、片頬夕日に眩《まぶ》しそう、ふくれた片頬は色の悪さ、蒼《あお》ざめて藍《あい》のよう、銀色のどろりとした目、瞬《またたき》をしながら呼んだ。
駄菓子の箱を並べた台の、陰に入って踞《しゃが》んで居た、此方《こなた》の嫗《おうな》が顔を出して、
「主《ぬし》か。やれもやれも、お達者でござるわや。」
と、ぬいと起《た》つと、その紅糸《べにいと》の目が動く。
十
来たのが口もあけず、咽喉《のど》でものを云うように、顔も静《じっ》と傾いたるまま、
「主《ぬし》もそくさいでめでたいぞいの。」
「お天気模様でござるわや。暑さには喘《あえ》ぎ、寒さには悩み、のう、時候よければ蛙《かわず》のように、くらしの蛇に追われるに、この年になるまでも、甘露の日和《ひより》と聞くけれども、甘い露は飲まぬわよ、ほほほ、」
と薄笑いした、また歯が黒い。
「おいの、さればいの、お互《たがい》に砂《いさご》の数ほど苦しみのたねは尽きぬ事いの。やれもやれも、」と言いながら、斜めに立った[#「立った」は底本では「立つた」]廂《ひさし》の下、何を覗《のぞ》くか爪立《つまだ》つがごとくにして、しかも肩腰は造りつけたもののよう、動かざること如朽木《くちきのごとし》。
「若い衆《しゅ》の愚痴《ぐち》より年よりの愚痴じゃ、聞く人も煩《うる》さかろ、措《お》かっしゃれ、ほほほ。のう、お婆さん。主はさてどこへ何を志して出てござった、山かいの、川かいの。」
「いんにゃの、恐しゅう歯がうずいて、きりきり鑿《のみ》で抉《えぐ》るようじゃ、と苦しむ者があるによって、私《わし》がまじのうて進じょうと、浜へ※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《えい》の針掘りに出たらばよ、猟師どもの風説《うわさ》を聞かっしゃれ。志す人があって、この川ぞいの三股《みつまた》へ、石地蔵が建つというわいの。」
それを聞いて、フト振向いた少年の顔を、ぎろりと、その銀色の目で流眄《しりめ》にかけたが、取って十八の学生は、何事も考えなかった。
「や、風説《うわさ》きかぬでもなかったが、それはまことでござるかいの。」
「おいのおいの、こんな難有《ありがた》い奇特なことを、うっかり聞いてござる年紀《とし》ではあるまいがや、ややお婆さん。
主は気が長いで、大方何じゃろうぞいの、地蔵様|開眼《かいげん》が済んでから、杖《つえ》を突張《つッぱ》って参らしゃます心じゃろが、お互に年紀じゃぞや。今の時世《ときよ》に、またとない結縁《けちえん》じゃに因って、半日も早うのう、その難有《ありがた》い人のお姿拝もうと思うての、やらやっと重たい腰を引立《ひった》てて出て来たことよ。」
紅糸《べにいと》の目はまた揺れて、
「奇特にござるわや。さて、その難有《ありがた》い人は誰でござる。」
「はて、それを知らしゃらぬ。主としたものは何ということぞいの。
このさきの浜際に、さるの、大長者《おおちょうじゃ》どのの、お別荘がござるてよ。その長者の奥様じゃわいの。」
「それが御建立なされるかよ。」
「おいの、いんにゃいの、建てさっしゃるはその奥様に違いないが、発願《ほつがん》した篤志《こころざし》の方はまた別にあるといの。
聞かっしゃれ。
その奥様は、世にも珍らしい、三十二相そろわしった美しい方じゃとの、膚《はだ》があたたかじゃに因って人間よ、冷たければ天女じゃ、と皆いうのじゃがの、その長者どのの後妻《うわなり》じゃ、うわなりでいさっしゃる。
よってその長者どのとは、三十の上も年紀が違うて、男の児《こ》が一人ござって、それが今年十八じゃ。
奥様は、それ、継母《ままはは》いの。
気立《きだて》のやさしい、膚も心も美しい人じゃによって、継母|継児《ままこ》というようなものではなけれども、なさぬなかの事なれば、万に一つも過失《あやまち》のないように、とその十四の春ごろから、行《おこない》の正しい、学のある先生様を、内へ頼みきりにして傍《そば》へつけておかしゃった。」
二人は正にそれなのである。
十一
「よいかの、十四の年からこの年まで、四五六七八と五年の間、寝るにも起《おき》るにも附添うて、しんせつにお教えなすった、その先生様のたんせいというものは、一通《ひととおり》の事ではなかったとの。
その効《かい》があってこの夏はの、そのお子がさる立派な学校へ入らっしゃるようになったに就いて、先生様は邸《やしき》を出て、自分の身体《からだ》になりたいといわっしゃる。
それまで受けた恩があれば、お客分にして一生置き申そうということ
前へ
次へ
全24ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング