、いや、しかし飛んだ目にお逢《あ》いでした。ちっとも御心配はないですよ。まあ、その足をお拭《ふ》きなさい。突然こんな処へ着けたですから、船を離れる時、酷《ひど》くお濡れなすったようだ。」
廉平は砥《と》に似て蒼《あお》き条《すじ》のある滑《なめら》かな一座の岩の上に、海に面して見すぼらしく踞《しゃが》んだ、身にただ襯衣《しゃつ》を纏《まと》えるのみ。
船の中でも人目を厭《いと》って、紺がすりのその単衣《ひとえ》で、肩から深く包んでいる。浦子の蹴出《けだ》しは海の色、巌端《いわばな》に蒼澄《あおず》みて、白脛《しらはぎ》も水に透くよう、倒れた風情に休らえる。
二人は靄《もや》の薄模様。
「構わんですから、私の衣服《きもの》でお拭きなさい。
何、寒くはないです、寒いどころではないですが、貴女、裾《すそ》が濡れましたで、気味が悪いでありましょう。」
「いえ、もう潮に濡れて気味が悪いなぞと、申されます身体《からだ》ではありません。」と、投げたように岩の上。
「まだ、おっしゃる!」
「ははは、」と廉平は笑い消したが、自分にも疑いの未《いま》だ解けぬ、蘆《あし》の中なる幻影《まぼろし》を、この際なれば気《け》もない風で、
「夢の中を怪しいものに誘い出されて、苫船《とまぶね》の中で、お身体を……なんという、そんな、そんな事がありますものかな。」
「それでも私、」
と、かかる中にも夫人は顔を赧《あか》らめた。
「覚えがあるのでございますもの。貴下《あなた》が気をつけて下すって、あの苫船の中で漸々《ようよう》自分の身体になりました時も、そうでした、……まあ、お恥かしい。」
といいかけて差俯向《さしうつむ》く、額に乱れた前髪は、歯にも噛《か》むべく怨《うら》めしそう。
「ですが、ですが、それは心の迷いです。昨日《きのう》あたりからどうかなさって、お身体《からだ》の工合が悪いのでしょう。西洋なぞにも、」
言《ことば》の下に聞き咎《とが》め、
「西洋とおっしゃれば、貴下《あなた》は西洋の婦人《おんな》の方が、私のつかまっておりました船の中を覗《のぞ》いて見て、仔細《しさい》がありそうに招いたのを、丘の上から御覧なすって、それでお心着きになりましたって。
その時も、苫を破って獣が飛んで行ったとおっしゃるではございませんか。
ですから私は、」
と早や力なげに、なよなよとする
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