眼《まなこ》をむいた。
 のさのさのさ、頭で廊下をすって来て、夫人の枕に近づいて、ト仰いで雨戸の顔を見た、額に二つ金の瞳、真赤《まっか》な口を横ざまに開けて、
「ふァはははは、」
「う、うふふ、うふふ、」と傾《かた》がって、戸を揺《ゆす》って笑うと、バチャリと柄杓を水に投げて、赤目の嫗《おうな》は、
「おほほほほほ、」と尋常な笑い声。
 廊下では、その握られた時氷のように冷たかった、といった手で、頬にかかった鬢《びん》の毛を弄《もてあそ》びながら、
「洲《す》の股《また》の御前《ごぜん》も、山の峡《かい》の婆さまも早かったな。」というと、
「坂下の姉《あね》さま、御苦労にござるわや。」と手水鉢から見越して言った。
 銀の目をじろじろと、
「さあ、手を貸され、連れて行《い》にましょ。」

       十九

「これの、吐《つ》く呼吸《いき》も、引く呼吸も、もうないかいの、」と洲《す》の股《また》の御前《ごぜん》がいえば、
「水くらわしや、」
 と峡《かい》の婆《ばば》が邪慳《じゃけん》である。
 ここで坂下の姉様《あねさま》は、夫人の前髪に手をさし入れ、白き額を平手で撫《な》でて、
「まだじゃ、ぬくぬくと暖い。」
「手を掛けて肩を上げされ、私《わし》が腰を抱こうわいの。」
 と例の横あるきにその傾いた形を出したが、腰に組んだ手はそのままなり。
 洲の股の御前、傍《かたわら》より、
「お婆さん、ちょっとその※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《えい》の針で口の端《はた》縫わっしゃれ、声を立てると悪いわや。」
「おいの、そうじゃの。」と廊下でいって、夫人の黒髪を両手で圧《おさ》えた。
 峡の婆、僅《わずか》に手を解き、頤《おとがい》[#ルビの「おとがい」は底本では「おとがひ」]で襟を探って、無性《ぶしょう》らしく撮《つま》み出した、指の爪《つめ》の長く生伸《はえの》びたかと見えるのを、一つぶるぶると掉《ふ》って近づき、お伽話《とぎばなし》の絵に描いた外科医者という体《てい》で、震《おのの》く唇に幽《かすか》に見える、夫人の白歯《しらは》の上を縫うよ。
 浦子の姿は烈《はげ》しく揺れたが、声は始めから得《え》立てなかった。目は※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いていたのである
「もう可《よ》いわいの、」
 と峡の婆、傍《かたわら》に身を開くと、坂の
前へ 次へ
全48ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング