、屋根を越した月の影が、廂《ひさし》をこぼれて、竹垣に葉かげ大きく、咲きかけるか、今、開くと、朝《あした》の色は何々ぞ。紺に、瑠璃《るり》に、紅絞《べにしぼ》り、白に、水紅色《ときいろ》、水浅葱《みずあさぎ》、莟《つぼみ》の数は分らねども、朝顔形《あさがおなり》の手水鉢《ちょうずばち》を、朦朧《もうろう》と映したのである。
 夫人は山の姿も見ず、松も見ず、松の梢《こずえ》に寄る浪の、沖の景色にも目は遣《や》らず、瞳を恍惚《うっとり》見据えるまで、一心に車夫部屋の灯《ともし》を、遥《はるか》に、船の夢の、燈台と力にしつつ、手を遣ると、……柄杓《ひしゃく》に障《さわ》らぬ。
 気にもせず、なお上《うわ》の空で、冷たく瀬戸ものの縁を撫《な》でて、手をのばして、向うまで辷《すべ》らしたが、指にかかる木《こ》の葉もなかった。
 目を返して透かして見ると、これはまた、胸に届くまで、近くあり。
 直ぐに取ろうとする、柄杓は、水の中をするすると、反対《むこう》まえに、山の方へ柄がひとりで廻った。
 夫人は手のものを落したように、俯向《うつむ》いて熟《じっ》と見る。
 手水鉢と垣の間の、月の隈《くま》暗き中に、ほのぼのと白く蠢《うごめ》くものあり。
 その時、切髪《きりかみ》の白髪《しらが》になって、犬のごとく踞《つくば》ったが、柄杓の柄に、痩《や》せがれた手をしかとかけていた。
 夕顔の実に朱の筋の入った状《さま》の、夢の俤《おもかげ》をそのままに、ぼやりと仰向《あおむ》け、
「水を召されますかいの。」
 というと、艶《つや》やかな歯でニヤリと笑む。
 息とともに身を退《ひ》いて、蹌踉々々《よろよろ》と、雨戸にぴッたり、風に吹きつけられたようになって面《おもて》を背けた。斜《はす》ッかいの化粧部屋の入口を、敷居にかけて廊下へ半身。真黒《まっくろ》な影法師のちぎれちぎれな襤褸《ぼろ》を被《き》て、茶色の毛のすくすくと蔽《おお》われかかる額のあたりに、皺手《しわで》を合わせて、真俯向《まうつむ》けに此方《こなた》を拝んだ這身《はいみ》の婆《ばば》は、坂下の藪《やぶ》の姉様《あねさま》であった。
 もう筋も抜け、骨崩れて、裳《もすそ》はこぼれて手水鉢、砂地に足を蹈《ふ》み乱して、夫人は橋に廊下へ倒れる。
 胸の上なる雨戸へ半面、ぬッと横ざまに突出したは、青ンぶくれの別の顔で、途端に銀色の
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