もとより誰も居ない。
 閨《ねや》と並んで、庭を前に三間続きの、その一室《ひとま》を隔てた八畳に、銑太郎と、賢之助が一つ蚊帳。
 そこから別に裏庭へ突き出でた角座敷の六畳に、先生が寝ている筈《はず》。
 その方《ほう》にも厠《かわや》はあるが、運ぶのに、ちと遠い。
 件《くだん》の次の明室《あきま》を越すと、取着《とッつき》が板戸になって、その台所を越した処に、松という仲働《なかばたらき》、お三と、もう一人女中が三人。
 婦人《おんな》ばかりでたよりにはならぬが、近い上に心安い。
 それにちと間はあるが、そこから一目の表門の直ぐ内に、長屋だちが一軒あって、抱え車夫が住んでいて、かく旦那《だんな》が留守の折からには、あけ方まで格子戸から灯《あかり》がさして、四五人で、ひそめくもの音。ひしひしと花ふだの響《ひびき》がするのを、保養の場所と大目に見ても、好《い》いこととは思わなかったが、時にこそよれ頼母《たのも》しい。さらばと、やがて廊下づたい、踵《かかと》の音して、するすると、裳《もすそ》の気勢《けはい》の聞ゆるのも、我ながら寂しい中に、夢から覚めたしるしぞ、と心嬉しく、明室《あきま》の前を急いで越すと、次なる小室《こべや》の三畳は、湯殿に近い化粧部屋。これは障子が明いていた。
 中《うち》から風も吹くようなり、傍正面《わきしょうめん》の姿見に、勿《な》、映りそ夢の姿とて、首垂《うなだ》るるまで顔を背《そむ》けた。
 新しい檜《ひのき》の雨戸、それにも顔が描かれそう。真直《まっすぐ》に向き直って、衝《つ》と燈《ともしび》を差出しながら、突《つき》あたりへ辿々《たどたど》しゅう。

       十八

 ばたり、閉めた杉戸の音は、かかる夜ふけに、遠くどこまで響いたろう。
 壁は白いが、真暗《まっくら》な中に居て、ただそればかりを力にした、玄関の遠あかり、車夫部屋の例のひそひそ声が、このもの音にハタと留《や》んだを、気の毒らしく思うまで、今夜《こよい》はそれが嬉しかった。
 浦子の姿は、無事に厠《かわや》を背後《うしろ》にして、さし置いたその洋燈《ランプ》の前、廊下のはずれに、媚《なまめ》かしく露《あら》われた。
 いささか心も落着いて、カチンとせんを、カタカタとさるを抜いた、戸締り厳重な雨戸を一枚。半ば戸袋へするりと開けると、雪ならぬ夜の白砂、広庭一面、薄雲の影を宿して
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