声をかけて見ようと思う、嫗は小屋で暗いから、他《ほか》の一人はそこへと見|遣《や》るに、誰《たれ》も無し、月を肩なる、山の裾、蘆を※[#「ころもへん+因」、第4水準2−88−18]《しとね》の寝姿のみ。
「賢、」
 と呼んだ、我ながら雉子《きじ》のように聞えたので、呟《せきばらい》して、もう一度、
「賢君、」
「は、」
 と快活に返事する。
「今の婆さんは幾歳《いくつ》ぐらいに見えました。」
「この茶店のですか。」
「いや、もう一人、……ここへ来た年寄が居たでしょう。」
「いいえ。」

       十三

「あれえ! ああ、あ、ああ……」
 恐《こわ》かった、胸が躍って、圧《おさ》えた乳房重いよう、忌《いま》わしい夢から覚めた。――浦子は、独り蚊帳《かや》の裡《うち》。身の戦《わなな》くのがまだ留《や》まねば、腕を組違えにしっかと両の肩を抱いた、腋《わき》の下から脈を打って、垂々《たらたら》と冷《つめた》い汗。
 さてもその夜《よ》は暑かりしや、夢の恐怖《おそれ》に悶《もだ》えしや、紅裏《もみうら》の絹の掻巻《かいまき》、鳩尾《みずおち》を辷《すべ》り退《の》いて、寝衣《ねまき》の衣紋《えもん》崩れたる、雪の膚《はだえ》に蚊帳の色、残燈《ありあけ》の灯に青く染まって、枕《まくら》に乱れた鬢《びん》の毛も、寝汗にしとど濡れたれば、襟白粉《えりおしろい》も水の薫《かおり》、身はただ、今しも藻屑《もくず》の中を浮び出でたかの思《おもい》がする。
 まだ身体《からだ》がふらふらして、床の途中にあるような。これは寝た時に今も変らぬ、別に怪しい事ではない。二つ目の浜の石屋が方《かた》へ、暮方仏像をあつらえに往《い》った帰りを、厭《いや》な、不気味な、忌わしい、婆《ばば》のあらもの屋の前が通りたくなさに、ちょうど満潮《みちしお》を漕《こ》げたから、海松布《みるめ》の流れる岩の上を、船で帰って来たせいであろう。艪《ろ》を漕いだのは銑さんであった、夢を漕いだのもやっぱり銑さん。
 その時は折悪《おりあし》く、釣船も遊山船《ゆさんぶね》も出払って、船頭たちも、漁、地曳《じびき》で急がしいから、と石屋の親方が浜へ出て、小船を一|艘《そう》借りてくれて、岸を漕いでおいでなさい、山から風が吹けば、畳を歩行《ある》くより確《たしか》なもの、船をひっくりかえそうたって、海が合点《がってん》
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