それに二つ目へ行かっしゃるに、奥様は通り路。もう先刻《さっき》に拝んだじゃろうが、念のためじゃ立寄りましょ。ああ、それよりかお婆さん、」
 と片頬《かたほ》を青く捻《ね》じ向けた、鼻筋に一つの目が、じろりと此方《こなた》を見て光った。
「主《ぬし》、数珠《じゅず》を忘れまいぞ。」
「おう、可《よ》いともの、お婆さん、主、その※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《えい》の針を落さっしゃるな。」
「御念には及ばぬわいの。はい、」
 と言って、それなり前途《むこう》へ、蘆を分ければ、廂《ひさし》を離れて、一人は店を引込《ひっこ》んだ。磯《いそ》の風|一時《ひとしきり》、行《ゆ》くものを送って吹いて、颯《さっ》と返って、小屋をめぐって、ざわざわと鳴って、寂然《ひっそり》した。
 吻々吻《ほほほ》と花やかな、笑い声、浜のあたりに遥《はるか》に聞ゆ。
 時に一碗の茶を未《いま》だ飲干さなかった、先生はツト心着いて、いぶかしげな目で、まず、傍《かたわら》なる少年の並んで坐った背《せな》を見て、また四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》したが、月夜の、夕日に返ったような思いがした。
 嫗《おうな》の言《ことば》が渠《かれ》を魅したか、その蘆の葉が伸びて、山の腰を蔽《おお》う時、水底《みなそこ》を船が漕《こ》いで、岡沙魚《おかはぜ》というもの土に跳ね、豆蟹《まめがに》の穂末《ほずえ》に月を見る状《さま》を、目《ま》のあたりに目に浮べて、秋の夜の月の趣に、いつか心の取られた耳へ、蘆の根の泡立つ音、葉末を風の戦《そよ》ぐ声、あたかも天地《あめつち》の呟《つぶや》き囁《ささや》くがごとく、我が身の上を語るのを、ただ夢のように聞きながら、顔の地蔵に似たなどは、おかしと現《うつつ》にも思ったが、いつごろ、どの時分、もう一人の嫗《おうな》が来て、いつその姿が見えなくなったか、定かには覚えなかった。たとえば、そよそよと吹く風の、いつ来て、いつ歇《や》んだかを覚えぬがごとく、夕日の色の、何の機《とき》に我が袖《そで》を、山陰へ外れたかを語らぬごとく。
 さればその間、およそ、時のいかばかりを過ぎたかを弁《わきま》えず、月夜とばかり思ったのも、明るく晴れた今日である。いつの程にか、継棹《つぎざお》も少年の手に畳まれて、袋に入って、紐までちゃんと結《ゆわ》えてあった。
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