草の径《みち》ももどかしい。畦《あぜ》ともいわず、刈田と言わず、真直《まっすぐ》に突切《つっき》って、颯《さっ》と寄った。
 この勢いに、男は桂谷の山手の方へ、掛稲を縫って、烏とともに飛んで遁《に》げた。
「おお。」
「あ、あれ、先刻《さっき》の旦那さん。」
 遁げた男は治兵衛坊主で――お光に聞いた――小春であった。
「外套を被《かぶ》って、帽子をめして、……見違えて、おほほほほ、失礼な、どうしましょう。」
 と小春は襟も帯も乱れた胸を、かよわく手でおさえて、片手で外套の袖に縋りながら、蒼白《まっさお》な顔をして、涙の目でなお笑った。
「おほほほほほ、堪忍、御免なすって、あははははは。」
 妙齢《としごろ》だ。この箸がころんでも笑うものを、と憮然《ぶぜん》としつつ、駒下駄が飛んで、はだしの清い、肩も膝も紅《くれない》の乱れた婦《おんな》の、半ば起きた肩を抱いた。
「御免なすって、旦那さん、赤蜻蛉をつかまえようと遊ばした、貴方《あなた》の、貴方の形が、余り……余り……おほほほほ。」
「いや、我ながら、思えば可笑《おか》しい。笑うのは当り前だ。が、気の毒だ。連《つれ》の男は何という乱暴だ。」
「ええ、家《うち》ではかえって人目に立つッて、あの、おほほ、心中《しんじゅう》の相談をしに来た処だものですから、あはははは。」
 ひたと胸に、顔をうずめて、泣きながら、
「おほほほほほほ。」

       五

「旦那さん、そんなら、あの、私、……死なずと大事ございませんか……」
「――言うだけの事はないよ、――まるッきり、お前さんが慾《よく》ばかりでだましたのでみた処で……こっちは芸妓《げいしゃ》だ。罪も報《むくい》もあるものか。それに聞けば、今までに出来るだけは、人情も義理も、苦労をし抜いて尽しているんだ。……勝手な極道《ごくどう》とか、遊蕩《ゆうとう》とかで行留りになった男の、名は体《てい》のいい心中だが、死んで行《ゆ》く道連れにされて堪《たま》るものではない。――その上、一人身ではないそうだ。――ここへ来る途中で俄盲目《にわかめくら》の爺《とっ》さんに逢って、おなじような目の悪い父親があると言って泣いたじゃないか。」――

 掛稲《かけいね》、嫁菜の、畦《あぜ》に倒れて、この五尺の松に縋《すが》って立った、山代の小春を、近江屋へ連戻った事は、すぐに頷《うなず》かれよう。芸妓《げいしゃ》である。そのまま伴って来るのに、何の仔細《しさい》もなかったこともまた断るに及ぶまい。
 なお聞けば、心中は、単に相談ばかりではない。こうした場所と、身の上では、夜中よりも人目に立たない、静《しずか》な日南《ひなた》の隙を計って、岐路《えだみち》をあれからすぐ、桂谷へ行くと、浄行寺《じょうぎょうじ》と云う門徒宗が男の寺。……そこで宵の間《ま》に死ぬつもりで、対手《あいて》の袂《たもと》には、商《あきない》ものの、(何とか入らず)と、懐中には小刀《ナイフ》さえ用意していたと言うのである。
 上前《うわまえ》の摺下《ずりさが》る……腰帯の弛《ゆる》んだのを、気にしいしい、片手でほつれ毛を掻きながら、少しあとへ退《さが》ってついて来る小春の姿は、道行《みちゆき》から遁《に》げたとよりは、山奥の人身御供《ひとみごくう》から助出《たすけだ》されたもののようであった。
 左山中|道《みち》、右桂谷道、と道程標《みちしるべ》の立った追分《おいわけ》へ来ると、――その山中道の方から、脊のひょろひょろとした、頤《あご》の尖《とが》った、痩《や》せこけた爺《じい》さんの、菅《すげ》の一もんじ笠を真直《まっすぐ》に首に据えて、腰に風呂敷包をぐらつかせたのが、すあしに破脚絆《やぶれぎゃはん》、草鞋穿《わらじばき》で、とぼとぼと竹の杖《つえ》に曳《ひ》かれて来たのがあった。
 この竹の杖を宙に取って、さきを握って、前へも立たず横添《よこぞい》に導きつつ、くたびれ脚を引摺ったのは、目も耳もかくれるような大《おおき》な鳥打帽の古いのをかぶった、八つぐらいの男の児《こ》で。これも風呂敷包を中結《なかゆわ》えして西行背負《さいぎょうじょい》に背負っていたが、道中《みちなか》へ、弱々と出て来たので、横に引張合《ひっぱりあ》った杖が、一方通せん坊になって、道程標《みちしるべ》の辻の処で、教授は足を留めて前へ通した。が、細流《せせらぎ》は、これから流れ、鳥居は、これから見え、町もこれから賑《にぎや》かだけれど、俄めくらと見えて、突立《つった》った足を、こぶらに力を入れて、あげたり、すぼめたりするように、片手を差出して、手探りで、巾着《きんちゃく》ほどな小児《こども》に杖を曳かれて辿《たど》る状《さま》。いま生命《いのち》びろいをした女でないと、あの手を曳いて、と小春に言ってみたいほど、
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