《おけ》の蔭から、むくと起きて、脚をひろげて、もう一匹よちよちと、同じような小狗《こいぬ》は出て来ても、村の閑寂間《しじま》か、棒切《ぼうきれ》持った小児《こども》も居ない。
 で、ここへ来た時……前途《むこう》山の下から、頬被《ほおかぶ》りした脊の高い草鞋《わらじ》ばきの親仁《おやじ》が、柄の長い鎌を片手に、水だか酒だか、縄からげの一升罎《いっしょうびん》をぶら下げたのが、てくりてくりと、畷を伝い、松茸の香を芬《ぷん》とさせて、蛇の茣蓙《ござ》と称《とな》うる、裏白の葉を堆《うずたか》く装《も》った大籠《おおかご》を背負《しょ》ったのを、一ツゆすって通過ぎた。うしろ形《つき》も、罎と鎌で調子を取って、大手を振った、おのずから意気の揚々とした処は、山の幸を得た誇《ほこり》を示す。……籠に、あの、ばさばさ群った葉の中に、鯰《なまず》のような、小鮒《こぶな》のような、頭の大《おおき》な茸《たけ》がびちびち跳ねていそうなのが、温泉《いでゆ》の町の方へずッと入った。しばらく、人に逢ったのはそればかりであった。
 客は、陽《ひなた》の赤蜻蛉に見愡《みと》れた瞳を、ふと、畑際《はたぎわ》の尾花に映すと、蔭の片袖が悚然《ぞっ》とした。一度、しかとしめて拱《こまぬ》いた腕を解《ほど》いて、やや震える手さきを、小鬢《こびん》に密《そっ》と触れると、喟然《きぜん》として面《おもて》を暗うしたのであった。
 日南《ひなた》に霜が散ったように、鬢にちらちらと白毛《しらが》が見える。その時、赤蜻蛉の色の真紅《まっか》なのが忘れたようにスッと下りて、尾花の下《もと》に、杭の尖《さき》に留《とま》った。……一度伏せた羽を、衝《つ》と張った、きらりと輝かした時、あの緑の目を、ちょっと此方《こなた》へ振動かした。
 小狗の戯《たわむれ》にも可懐《なつかし》んだ。幼心《おさなごころ》に返ったのである。
 教授は、ほとびるがごとき笑顔になった。が、きりりと唇をしめると、真黒《まっくろ》な厚い大《おおき》な外套《がいとう》の、背腰を屁びりに屈《かが》めて、及腰《およびごし》に右の片手を伸《のば》しつつ、密《そっ》と狙《ねら》って寄った。が、どうしてどうして、小児《こども》のように軽く行かない。ぎくり、しゃくり、いまが大切、……よちりと飛附く。……南無三宝《なむさんぽう》、赤蜻蛉は颯《さっ》と外《そ》れた。
 はっと思った時である。
「おほほほほ。ははははは。」
 花々しく調子高に、若い女の笑声が響いた。
 向うに狗児《いぬころ》の形《かげ》も、早や見えぬ。四辺《あたり》に誰も居ないのを、一息の下《もと》に見渡して、我を笑うと心着いた時、咄嗟《とっさ》に渋面を造って、身を捻《ね》じるように振向くと……
 この三角畑の裾の樹立《こだち》から、広野《ひろの》の中に、もう一条《ひとすじ》、畷《なわて》と傾斜面の広き刈田を隔てて、突当りの山裾へ畦道《あぜみち》があるのが屏風のごとく連《つらな》った、長く、丈《せい》の高い掛稲《かけいね》のずらりと続いたのに蔽《おお》われて、半ばで消えるので気がつかなかった。掛稲のきれ目を見ると、遠山の雪の頂が青空にほとばしって、白い兎が月に駈《か》けるようである。下も水のごとく、尾花の波が白く敷く。刈残した粟《あわ》の穂の黄色なのと段々になって、立蔽う青い霧に浮いていた。
 と見向いた時、畦の嫁菜を褄《つま》にして、その掛稲の此方《こなた》に、目も遥《はるか》な野原刈田を背にして間《あわい》が離れて確《しか》とは見えぬが、薄藍《うすあい》の浅葱《あさぎ》の襟して、髪の艶《つやや》かな、色の白い女が居て、いま見合せた顔を、急に背けるや否や、たたきつけるように片袖を口に当てたが、声は高々と、澄切った空を、野に響いた。
「おほほほほほ、おほほほ、おほほほほほ。」
 おや、顔に何かついている?……すべりを扱《しご》いて、思わず撫《な》でると、これがまた化かされものが狐に対する眉毛に唾《つば》と見えたろう。
 金切声で、「ほほほほほほ。」
 十歩ばかり先に立って、一人男の連《つれ》が居た。縞《しま》がらは分らないが、くすんだ装《なり》で、青磁色の中折帽《なかおれぼう》を前のめりにした小造《こづくり》な、痩《や》せた、形の粘々《ねばねば》とした男であった。これが、その晴やかな大笑《おおわらい》の笑声に驚いたように立留って、廂《ひさし》睨《にら》みに、女を見ている。
 何を笑う、教授はまた……これはこの陽気に外套を着たのが可笑《おかし》いのであろうと思った……言うまでもない。――途中でな、誰を見ても、若いものにも、老人《としより》にも、外套を着たものは一人もなかった。湯の廓は皆柳の中を広袖《どてら》で出歩行《である》く。勢《いきおい》なのは浴衣一枚、裸体《
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