に説いたのであった。
「……ほんとに私、死なないでも大事ございませんわね。」
「死んで堪《たま》るものか、死ぬ方が間違ってるんだ。」
「でも、旦那さん、……義理も、人情も知らない女だ、薄情だと、言われようかと、そればかりが苦になりました。もう人が何と言いましょうと、旦那さんのお言《ことば》ばかりで、どんなに、あの人から責められましても私はきっぱりと、心中なんか厭《いや》だと言います。お庇《かげ》さまで助りました。またこれで親兄弟のいとしい顔も見られます。もう、この一年ばかりこのかたと言いますもの、朝に晩に泣いてばかり、生きた瀬はなかったのです。――その苦《くるし》みも抜けました。貴方は神様です。仏様です。」
「いや、これが神様や仏様だと、赤蜻蛉の形をしているのだ。」
「おほほ。」
「ああ、ほんとに笑ったな――もう可《よ》し、決して死ぬんじゃないよ。」
「たとい間違っておりましても、貴方のお言《ことば》ばかりで活《い》きます。女の道に欠けたと言われ、薄情だ、売女《ばいた》だと言う人がありましても、……口に出しては言いませんけれど、心では、貴方のお言葉ゆえと、安心をいたします。」
「あえて構わない。この俺が、私と言うものが、死ぬなと言ったから死なないと、構わず言え。――言ったって決して構わん。」
「いいえ、勿体ない、お名ふだもおねだり申して頂きました。人には言いはしませんが、まあ、嬉しい。……嬉しゅうございますわ。――旦那さん。」
「…………」
「あの、それですけれど……安心をしましたせいですか、落胆《がっかり》して、力が抜けて。何ですか、余り身体《からだ》にたわいがなくって、心細くなりました。おそばへ寄せて下さいまし……こんな時でございませんと、思い切って、お顔が見られないのでございますけど、それでも、やっぱり、暗くて見えはしませんわ。」
と、膝に密《そっ》と手を置いて、振仰いだらしい顔がほの白い。艶《つや》濃《こ》き髪の薫《かおり》より、眉がほんのりと香《にお》いそうに、近々とありながら、上段の間は、いまほとんど真暗《まっくら》である。
六
実は、さきに小春を連れて、この旅館へ帰った頃に、廊下を歩行《ある》き馴《な》れたこの女が、手を取ったほど早や暗くて、座敷も辛《かろう》じて黒白《あいろ》の分るくらいであった。金屏風《きんびょうぶ》とむきあ
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