たり。
「腹が空いたろで、早くお飯《まんま》を食わせようと思うたでね。急《せ》いたわいな、旦那さん。」
 と、そのまま跳廻《はねまわ》ったかと思うと。
「北国一だ。」
 と投げるように駈《か》け出した。
 酒は手酌が習慣《くせ》だと言って、やっと御免を蒙《こうむ》ったが、はじめて落着いて、酒量の少い人物の、一銚子を、静《しずか》に、やがて傾けた頃、屏風の陰から、うかがいうかがい、今度は妙に、おっかなびっくりといった形で入って来て、あらためてまた給仕についたのであった。
 話は前後したが、涙の半紙はここにあった。客は何となく折を見て聞いたのである。
 
「いましがたちょっと買ものをして来たんだが、」
 と言継いで、
「彼家《あそこ》に、嫁さんか、娘さんか、きれいな女が居るだろう。」
「北国一だ。あはははは。」
 と、大声でいきなり笑った。
「まあまあ、北国一としておいて、何だい、娘かい、嫁さんかい。」
 また大声で、
「押惚《おっぽ》れたか。旦那さん。」
「驚かしなさんな。」
「吃驚《びっくり》しただろ、あの、別嬪《べっぴん》に。……それだよ、それが小春《こはる》さんだ。この土地の芸妓《げいしゃ》でね、それだで、雑貨店の若旦那を、治兵衛坊主と言うだてば。」
「成程、紙屋――あの雑貨店の亭主だな。」
「若い人だ、活《い》きるわ、死ぬるわという評判ものだよ。」
「それで治兵衛……は分ったが、坊主とはどうした訳かね。」
「何、旦那さん、癇癪持《かんしゃくもち》の、嫉妬《やきもち》やきで、ほうずもねえ逆気性《のぼせしょう》でね、おまけに、しつこい、いんしん不通だ。」
「何?……」
「隠元豆、田螺《たにし》さあね。」
「分らない。」
「あれ、ははは、いんきん、たむしだてば。」
「乱暴だなあ。」
「この山代の湯ぐらいでは埒《らち》あかねえさ。脚気《かっけ》山中《やまなか》、かさ粟津《あわづ》の湯へ、七日湯治をしねえ事には半月十日寝られねえで、身体《からだ》中|掻毟《かきむし》って、目が引釣《ひッつ》り上る若旦那でね。おまけに、それが小春さんに、金子《かね》も、店も田地までも打込《ぶちこ》んでね。一時《いっとき》は、三月ばかりも、家へ入れて、かみさんにしておいた事もあったがね。」
 ――初女房《ういにょうぼう》、花嫁ぶりの商いはこれで分った――
「ちゃんと金子を突いたでねえから、抱
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