せられてしばらくは原稿を離れ得ない。やがてようやく稿を離れて封筒はポストの底に落ちる。けれどそれだけでは安心が出来ない。もしか原稿はポストの周囲にでも落ちていないだろうかという危惧《きぐ》は、直ちに次いで我を襲うのである。そうしてどうしても三回、必ずポストを周って見る。それが夜ででもあればだが、真昼中|狂気染《きちがいじ》みた真似をするのであるから、さすがに世間が憚《はばか》られる、人の見ぬ間を速疾《はや》くと思うのでその気苦労は一方ならなかった。かくてともかくにポストの三めぐりが済むとなお今一度と慥《たしか》めるために、ポストの方を振り返って見る。即ちこれ程の手数を経なければ、自分は到底安心することが出来なかったのである。
 しかるにある時この醜態を先生に発見せられ、一喝「お前はなぜそんな見苦しい事をする。」と怒鳴られたので、原稿投函上の迷信は一時に消失してしまった。蓋《けだ》し自分が絶対の信用を捧ぐる先生の一喝は、この場合なお観音力の現前せるに外ならぬのである。これによって僕は宗教の感化力がその教義のいかんよりも、布教者の人格いかんに関することの多いという実際を感じ得た。
 僕が迷
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