半で、一月が七円五十銭である。そこで活字が嬉しいから、三枚半で先ず……一回などという怪《け》しからん料簡方《りょうけんがた》のものでない。一回五六枚も書いて、まだ推敲《すいこう》にあらずして横に拡《ひろが》った時もある。楽屋落ちのようだが、横に拡がるというのは森田先生の金言で、文章は横に拡がらねばならぬということであり、紅葉先生のは上に重ならねばならぬというのであった。
その年即ち二十七年、田舎で窮していた頃、ふと郷里の新聞を見た。勿論金を出して新聞を購読するような余裕はない時代であるから、新聞社の前に立って、新聞を読んでいると、それに「冠弥左衛門」という小説が載っている。これは僕の書いたもののうちで、始めて活版になったものである。元来この小説は京都の日の出新聞から巌谷小波《いわやさざなみ》さんの処へ小説を書いてくれという註文が来てて、小波さんが書く間《ま》の繋《つなぎ》として僕が書き送ったものである。例の五枚寸延びという大安売、四十回ばかり休みなしに書いたのである。
本人始めての活版だし、出世第一の作が、多少上の部の新聞に出たことでもあれば、掲載済の分を、朝から晩まで、横に見たり、縦に見たり、乃至《ないし》は襖《ふすま》一重隣のお座敷の御家族にも、少々聞えよがしに朗読などもしたのである。ところがその後になって聞いてみると、その小説が載ってから完結になる迄に前後十九通、「あれでは困る、新聞が減る、どうか引き下げてくれ」という交渉が来たということである。これは巌谷さんの所へ言って来たのであるが、先生は、泉も始めて書くのにそれでは可憫《かわい》そうだという。慈悲心で黙って書かしてくだすったのであるという。それが絵ごとそっくり田舎の北国新聞に出ている。即ち僕が「冠弥左衛門」を書いたのは、この前年(二十六年)であるから、ちょうど一年振りで、二度の勤めをしている訳である。
そこでしばらく立って読んで見ていると、校正の間違いなども大分あるようだから、旁々《かたがた》ここに二度の勤めをするこの小説の由来も聞いてみたし、といって、まだ新聞社に出入ったことがないので、一向に様子もわからず、遠慮がち臆病《おくびょう》がちに社に入って見ると、どこの受付でも、恐《こわ》い顔のおじさんが控えているが、ここにも紋切形のおじさんが、何の用だ、と例の紋切形を並べる。その時僕は恐る恐る、実は今
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