の困難を悲《かなし》むようなら、なぜ富貴の家には生れ来ぬぞ……その時先生が送られた手紙の文句はなお記憶にある……
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其の胆の小なる芥子《けし》の如く其の心の弱きこと芋殻の如し、さほどに貧乏が苦しくば、安《いずくん》ぞ其始め彫※[#「門<韋」、第4水準2−91−59]《ちょうい》錦帳の中に生れ来らざりし。破壁残軒の下に生を享《う》けてパンを咬《か》み水を飲む身も天ならずや。
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馬鹿め、しっかり修行しろ、というのであった。これもまた信じている先生の言葉であったから、心機立ちどころに一転することが出来た。今日《こんにち》といえども想うて当時の事に到るごとに、心|自《おのず》ら寒からざるを得ない。
迷信譚はこれで止《や》めて、処女作に移ろう。
この「鐘声夜半録」は明治二十七年あたかも日清戦争の始まろうという際に成ったのであるが、当時における文士生活の困難を思うにつけ、日露開戦の当初にもまたあるいは同じ困難に陥りはせぬかという危惧《きぐ》からして、当時の事を覚えている文学者仲間には少からぬ恐慌《きょうこう》を惹《ひ》き起し、額を鳩《あつ》めた者もなきにしもあらずであったろう。
二十七八年戦争当時は実に文学者の飢饉歳《ききんどし》であった。まだ文芸倶楽部は出来ない時分で、原稿を持って行って買ってもらおうというに所はなく、新聞は戦争に逐《お》われて文学なぞを載せる余裕はない。いわゆる文壇|餓殍《がひょう》ありで、惨憺極《さんたんきわま》る有様であったが、この時に当って春陽堂は鉄道小説、一名探偵小説を出して、一面飢えたる文士を救い、一面渇ける読者を医した。探偵小説は百頁から百五十頁一冊の単行本で、原稿料は十円に十五円、僕達はまだ容易にその恩典には浴し得なかったのであるが、当時の小説家で大家と呼ばれた連中まで争ってこれを書いた。先生これを評して曰く、(お救い米)。
その後にようやく景気が立ちなおってからも、一流の大家を除く外、ほとんど衣食に窮せざるものはない有様で、近江新報その他の地方新聞の続き物を同人の腕こきが、先を争うてほとんど奪い合いの形で書いた。否《い》な独り同人ばかりでなく、先生の紹介によって、先生の宅に出入する幕賓連中迄|兀々《こつこつ》として筆をこの種の田舎新聞に執ったものだ。それで報酬はどうかというと一日一回三枚
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