ぜんぜんな》いとは言《い》はないが、その如何《いか》にもあくせくした感《かん》じは常《つね》に僕《ぼく》をして眉《まゆ》を顰《ひそ》めしめる。言《い》ひ換《か》へると、どうもゆとり[#「ゆとり」に傍点]が無《な》い、棘棘《とげとげ》し過《す》ぎる。だから、長《なが》い戰《たゝか》ひに堪《た》へ得《え》ず、結局《けつきよく》心身共《しんしんとも》にくたくたに疲《つか》れ切《き》つてしまふのだらうが、思《おも》ふに、支那人《しなじん》の麻雀戲《マージヤンぎ》には彼等《かれら》の風格《ふうかく》に存《そん》するやうな悠悠味《いういうみ》がどこかにあるのではなからうか?
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一|時《じ》、これは麻雀界《マージヤンかい》の論議《ろんぎ》の的《まと》になつたことだが、麻雀《マージヤン》が技《ぎ》の遊《あそ》びといふより以上《いじやう》に運《うん》の遊《あそ》びであることは爭《あらそ》へない。實際《じつさい》、運《うん》のつかない時《とき》と來《き》たらこれほど憂欝《いううつ》な遊《あそ》びはないし、逆《ぎやく》に運《うん》の波《なみ》に乘《の》つて天衣無縫《てんいむほう》に牌《パイ
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