かつた。私は眼をつぶつた。輕い毛布で顏を覆つた。が、だんだん憂鬱になつて行く自分をどうする事も出來なかつた。
「ほんとに好い花がございませんの……」と、かう晴れやかに呟きながら病室へはいつて來た武井さんの聲を聞いた時、私は救はれたやうな氣持がして毛布を撥ねのけた。武井さんは雨にしほれたやうな白と赤のコスモスの花を手にして、傍に立つてゐた。
「ダリヤはなかつたんですか?」と、私はふと思ひ出して訊ねた。
「ええ、ありましたわ。でも、もう痛んでて仕樣がないんですの。梅雨時分になりますと、切花は駄目でございますわね……」と、武井さんは答へながら花立に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]さつてゐた古い花を窓外に投げ捨てた。
「向うの二階の病室へ若い女の患者が來ましたね……」と、私はその女の事をまだ氣にし續けながら云つた。
「え、御覽になつたの。會社員の奧さんで肋膜がお惡い上に盲膓炎なんですつて。どつちもまだお輕いんださうですけれど、ずゐ分面倒な御病人ですのよ……」
「手術でもするんですか?」
「ええ、盲膓の方はどうしてもなさらなきやいけないの。院長さんも弱つて入らつしやるんですつて。だつて、そんな事をすると肋膜の方がねえ……」
「そりやあ大變だ……」と、私は少し誇張した聲で云つた。そして、傍の壁の白い空虚な面を譯もなくぢつと見詰めてゐた。死ぬ病人――さうした暗い意識の中に、陰氣なさつきの女の顏が何時となく重つて行くのだつた。
「綺麗でせう。ちよつと御覽なさいな……」と、武井さんは滿足さうな聲で呼びかけた。
「ええ、綺麗ですね……」と、私は花立に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]さつたコスモスの花を眺めながら云つたが、何となく何時ものやうな明るいなごんだ氣持にはなれなかつた。
 それからまた二三日經つた、或る夜の十時頃の事だつた。日の内から少し生暖かな風の吹く日で、窓の硝子には横なぐりの雨の滴が着いては消え着いては消えしてゐた。私は寢臺の上に、武井さんは少し離れた疊の上に何時ものやうに眠つたのだつたが、部屋の空氣が蒸蒸して私はどうしても[#「どうしても」は底本では「どうてしも」]寢つかれなかつた。そして、もう寢入つてしまつたらしい武井さんの靜かな息の音を聞きながら、涙ぐみたいやうな寂しさに捉はれてゐた。
 と、私の隣の、そのも一つ先隣の病室の扉が開いて、醫務室の方へ急いだらしい人の足音が私の病室の前を過ぎた。暫くすると、また三四人の靜かな足音と囁き聲が遠くの廊下から近づいて來て、その病室の方へはいつて行つた。そして、またしんとなつてしまつた。
「臨終が來たのぢやないか知ら……」と、私は急に不安に胸を衝かれながら考へた。その病室にはアメリカへ出稼ぎに行つて、肺結核に罹つて、故國で死にたいと云ふ望みから重體のまま歸朝して來た中年の紳士が、その十日程前からはいつてゐたのだつた。
「もう長くはないんですつて。ほんとに奧さんがお氣の毒ですわね……」と、武井さんは五六日前に庭の芝生の上に出てゐた、まだ若若しいその奧さんを私に教へながら、彼の身の上の事を話し聞かせてくれた。
 耳を澄ますと、その病室の方は相變らずひつそりとしてゐた。別に啜り泣くやうな聲も聞えなかつた。まだ其處までは行かないのかも知れない――と云つたやうな安堵が私の胸に湧いた。
「然し、故國で死ぬ――それが彼にとつてどれだけの滿足になつただらうか?」と、幾らか眠くなつて來た頭でそんな事を考へてゐる内に、遠い廊下の時計が十一時を寂しく打つた。窓外の雨音はまだ盛に聞えてゐた。
 その翌朝だつた。漸くお粥になつたばかりの朝食を食べてゐると、病室の外を通るゴム車の軋りがふと聞えた。
「あのね、この先の結核の患者の方ね。とうとう昨晩お逝くなりになつたのよ……」と、武井さんは急に聲を低めながら囁いた。
「ああ、とうとう……」と、私は靜に頷いた。やつぱりあの時が臨終だつたのか――と、私は心の中で呟いた。が、それがその時は人生の家常茶飯のやうに驚きとも悲しみとも胸に響かなかつた。そして、私は屍體運搬車に違ひないその車の遠い軋りの跡にぢつと耳を傾けてゐた。
 その日の午後――もう夕方近くになつて雨がからりと晴れて、雲切の間から夏らしく澄んだ紺青の空が見え出した。そして、傾きかけた赤い西日が樹木の水玉にきらきらと光つた。丁度、見舞ひに來た友達が歸つて間もない頃の事で、ふと物寂しい氣持になつた私はまた窓際の曲木の椅子に凭りながら、そのすがすがしい病院の庭の暮色を眺めてゐた。
「あ、またあの奧さんが覗いてゐますよ……」と、私はひよいと向う側の二階の右から三番目の窓に氣が附いて、傍の武井さんを振り返つた。
「さうですか……」と、膝に白い毛糸
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