處では退院の近づいた病人が明るい聲で笑つてゐる――そんな事をひよいと考へてみると、その長方形の八つの窓の明るさが何となく人間の不思議な運命の縮圖のやうに思はれたりするのであつた。
「ほんたうにあなたのお助かりになつたのは、院長さんも不思議だと云つてらつしやいましてよ……」と、私の生命がどんなに危かつたかを初めて聞かしてくれた時、武井さんはしまひにかう力の籠つた聲で云つて、ぢつと私の顏を見詰めてゐた。
「そんなでしたかね……」と、その詞がまだぴつたり頷けないやうな氣持で、私は武井さんの顏を見返してゐた。
「或る晩なんかは、何度先生の處へ駈けつけて行つたか分りませんわ。ほんとにもう今度こそは――と思つて……」
「何にも覺えてゐませんよ……」
私が相變らず反應のない、うは[#「うは」に傍点]の空の聲でかう云つたので、武井さんの白い顏には寂しい微笑が浮んでゐた。實際、私は自分がそんな危險な運命に迫られたとは、その時は思へないのであつた。
「ほんとに御當人が一番氣樂で好うございますわね……」と、その日の午後見舞ひに來た母は、武井さんがその會話の事を話して聞かせた時、かう云つて笑つた。が、直ぐその笑ひを抑へて、母は武井さんとぢつと眼を見合せた。
その時のぢつと見合つた二人の眼の中に含まれた或る意味――それから二三日寢ながら考へて行く内に、私はそれがだんだんに分つて行くやうな氣がした。死から救ひ出された自分なのだ――と、私はその事をはつきり考へてみた。と、其處に何か動かし難いやうな嚴かなもののある事を感じた。そして、或る晩、私は涙ぐみながら、何物かに感謝の祈りを捧げてゐた。
衰弱しきつた體はなかなか回復しなかつた。鏡を借りて自分の顏を見る時、青白い皮膚の色や、凹んだ眼や、殺げた頬や、變に尖がつた鼻や、毛の日に日に拔け落ちて行く頭などが、とても自分だとは思へないやうに情無く見えた。胸には肋骨が一つ一つ數へられた。ふくらはぎ[#「ふくらはぎ」に傍点]や腕のふくらみ[#「ふくらみ」に傍点]の處は老人のそれのやうにたるんで、觸つてみるとよごれた皮膚がまるで乾干びた木の葉のやうにかさかさしてゐた。
「何時になつたら歩けるでせうね?」と、私は或る時心細くなつて武井さんに聞いた。
「もう直ぐですわ……」と、武井さんは何でもない事のやうに答へた。
六月も末になつてからだつた。或る日武井さんに助けられながら起き上つて、私は寢臺の下に降りてみた。直ぐひよろひよろとひよろけて、私は尻もち[#「もち」に傍点]をつきさうになつた。私はあわてて寢臺に掴まつた。武井さんが背後から背中を支へてくれた。
「まるで赤んぼですね……」と、私は苦笑しながら、武井さんを振り返つた。
が、それでもそんな事を續けて行く内に、私の足元は一日一日と固まつて行つた。そして、寢臺の縁に掴まりながら一歩一歩と歩いて行く事に、子供のやうな興味を覺えるやうになつた。また時には窓際の曲木の椅子に腰掛けて、庭の景色や、向う側の病室の窓の中をぼんやり眺めてゐる事が出來るやうになつた。
その頃からもう梅雨だつた。陰氣な日が多くなつた。ねり絲のやうなしめやかな雨が青桐の葉や、芝生や、樹木の若葉をしつとりと濡らして、朝から夜がくるまで降り續けてゐる事があつた。誰も見舞ひにくる者もない、さうした日の午後など、私は病後のうら寂しい氣持で窓際の椅子に凭りながら、靜かな雨脚を[#「雨脚を」は底本では「兩脚を」]眺め暮してゐるのであつた。
或る日の午後だつた。武井さんが草花を買ひに行つた留守に、私は一人寢臺を靜に降りて、椅子に凭りながら烟るやうな雨脚を[#「雨脚を」は底本では「兩脚を」]通して見える、向う側の病室をぢつと眺めてゐた。と、私はその二階の病室の右手から三番目の窓に凭つて、同じやうに庭を眺めてゐる若い女をふと見附けたのであつた。
「やつぱり患者だな。新しくはいつて來たのか知ら……」と、私は一人呟きながらその女の方をぢつと見てゐた。と、女も私に氣附いたやうにちらりと視線を向けて、直ぐ芝生の方へ俯向いてしまつた。
「何の病人だらう……」と、その刹那にふと眼に殘つた女のほつそりと痩せた、青白い、如何にも物寂しい感じの輪廓を持つた顏を思ひ浮べながら、私は考へた。やがて、女は靜に身を飜して、白い窓掛《カアテン》の裏に隱れてしまつた。私はそのうしろ姿に何となく暗い影を感じた。そして、武井さんが或る時云つた「お逝くなりになる御病人は何だか初めの氣持で分りますわ……」と云ふ詞を思ひ出して、不吉な豫感にはつと胸を衝かれた。
私は變に暗い氣持にされた。そして、そのまままた寢臺の上に横になりながら、暫く白い天井を見詰めてゐた。が、不思議にその刹那の女の顏の印象が頭の中に浮び上つて、ひよいと胸を掠めた不吉な豫感が拭へな
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