猫又先生
南部修太郎
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《》:ルビ
(例)而《しか》も
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(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ。
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高橋順介、それが猫又先生の本名である。
先生はT中學校の國語並に國文法の先生で、私達が四年級に進んだ年の四月に新任されたのである。而《しか》も、當然私達の擔任たるべく期待されてゐた歴史の杉山先生が、肺患が重つた爲めに辭任されたので、代つて私達のクラスを擔任されることになつた。杉山先生は若かつたが、中學校の先生には稀に見る程の温かな人格者で、而も深い學識を持ちながら淡々たる擧措《きよそ》が一同の敬愛の的となつてゐた。故にその辭任の原因が肺患と知つた時にも、私達は先生と離れるのを幸福と思はなかつた。そして一同涙ぐましい程失望した。猫又先生はこの失望の前に迎へられたのである。
講堂で催された新學期始業式の席上で、教頭が新任先生三人の紹介をした後、猫又先生は三人の最後に壇上に現れて、赤面しながら挨拶された。先生の丈《たけ》は日本人並であつたが、髮の毛が赤く縮れた上に、眼が深く凹《くぼ》んでゐて、如何《いか》にも神經質らしい人に見えた。私達は擔任の先生であると聞いたので、特別の期待と好奇心を以て、先生の詞《ことば》に耳を傾けてゐた。が、遠くに離れてゐた私達の眼に、先生の紫ずんだ唇が磯巾着《いそぎんちやく》のやうに開閉し、それにつれて左右に撥《は》ねた一文字髭が鳶《とび》の羽根のやうに上下するのが見えたかと思ふと、先生はもう降壇されてしまつた。呆氣《あつけ》に取られたのは私ばかりではない。みんなきよとんとした眼で互に顏を見合せて、にやりと笑つた。私達は所屬の教室に退いて、今度こそは――と思ひながら、先生の到着を待つてゐた。
「おいおい、あの先生は少し露助に似てるな。」と、剽輕者《へうきんもの》の高木が眞先に口を切つた。
「露助……それよりも僕は猫みたいな氣がしたぜ、眼が變に光つて、髭がぴんと横つちよに撥《は》ねてて……」と、一人が笑ひながら云つた。
「とに角、貧相な先生だ。」とまた一人が叫んだ。
「然し、あの挨拶つ振りなんか見てると、人は好ささうだね。」と、得能が振り返つた。
「人が好ささうだつて、そいつはどうだかな。」副級長の松川が、それに答へた。
「だつて顏を赧《あか》くしたり、もぢもぢしたりして、何だか落ち着かなかつたぜ。」
「そりや違ふ、それで人が好いとは云へない。人間、誰だつて初めん時はちよいとてれるからね。」松川がまた反對した。
「てれる……」と、得能が呟いた。
「まあどつちみち、杉山先生とは比べ物にならないさ。」と、首藤が二人の間に口を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ。
姿から來た先生の印象は、とに角みんなの心持に輕い失望を與へたらしい。が、何《いづ》れにしてもみんなの口は、新任先生の下馬評に賑《にぎは》つて、囁《ささや》きとなり呟きとなり笑ひとなつて、部屋の空氣がざわめき立つてゐた。
「來たよ、來たよ。」と、一人が聞き耳を立てて叫んだ。
途端に、廊下から先生の靴音が明かに聞えて來た。みんなは一齊に默り込んで、顏を見合せた。教室は急に谷底にでも沈んだやうにひつそりして、ずんと抑へかかるやうな沈默が其處に擴がつた。そしてその靴底から傳はつてくるモノトナスな響が、みんなの聽覺を擽《くすぐ》るやうに刺戟した。而も、それが近寄つてくるにつれて、金屬と板との擦れ合ふやうな鈍音が聞えるのは、双の靴底に重い鐵の金具が打ち着けてあつたからに違ひない。
扉のハンドルががちやりと鳴つて、教壇の上に先生の姿を見るまでの數秒間、先生の動作は講堂で見た時のそれとは、餘程落ち着いてゐるやうに思はれた。それは恐らくは、初めての先生を目前に見ると云ふ一種のあらたまつた心持が、拔目のない私達の觀察眼を鈍らした爲めか、或は教へ子の前に自己の威嚴を保たうとする先生の意志が、十分の戒心を自らに加へた結果か、何れにせよ、先生が黒板を前にして端然と直立された時、私達は級長谷の號令に應じて、謹嚴な心持で一禮を行つたのである。先生の顏はそれに對して幽《かす》かに赧《あか》らんだが、それは明かに私達の敬意に答へる滿足の紅潮で、また實際の處、新任挨拶の爲めに着用されたフロッコオトの黒が譬《たと》へ古色蒼然たるものであつたにせよ、師としての敬意に價ひするだけの感じを、私達の心に與へてゐたのである。挨拶を濟《すま》した私達は緊張した心のまま席に着いて、靜かに先生の顏に視線を集中した。
「私がこれから諸君のクラスを受け持つこととなつた。諸君は學生としての諸君の本分を……」先生は緩《ゆるや》かに腰を降して、出席簿を讀み終ると、やがてかう口を開かれた。みんなは從順な學生振りを示して、ぢつと傾聽してゐた。
目の前にして見ると、額の狹い、頬骨の角張つた、そして痩せこけた先生の顏附は、如何にも貧相で、如何にも神經質らしい感じを深くした。その聲は相變らず低かつたが、聞いてゐる内に時々聞き慣れない調子|外《はづ》れの音が混《まじ》つた。而も初めには誰も氣附かなかつたらしいが、それが一音二音と重なつてくるにつれて、何處となく語調が可笑《をか》しく響くのである。然し、思ひの外滑《なめら》かな詞《ことば》の運びと、引き續いてゐたみんなの愼《つつし》みの念が、その隙《すき》を探る餘裕を與へなかつた。
「一體諸君は、國語學と云ふと輕蔑する傾きがある。然しそれはとんだ間違ひで、諸君が日本の人間である以上、一瞬間も諸君は國語學を忽《ゆるがせ》にしてはいけない……」私達の靜肅さに氣を得た先生は、その顏に輕い興奮の色を見せて、國語學の我田引水論を試み始めた。先生の女のやうな細い聲に、やや氣《け》上《あが》つた調子さへ加はつて來たのである。
「さうだ、一瞬間も諸君は國語を離れることは出來ない。例へば文章を書くにしても……」先生は得意らしく身振り手振りで諄々《じゆんじゆん》と説き出したが、かうなつて來た時、私は先生の所論の如何にも陳腐なのに氣が附かずにはゐられなかつた。そればかりではない、話に上《うは》ずつて來た先生の風貌は眼慣れるに從つて、堪らなく貧弱な、下品な物に見えて來た。みんなの愼しみは漸次に崩れざるを得なかつた。そして心持に餘裕の生じてくると共に、そろそろ中學生らしい惡戲性が働き出して、意地惡く何かの隙を覘《ねら》ひ始めたのである。
――一瞬間も諸君は――と、その詞が二度目に先生の口を衝《つ》いて出た時、背後《うしろ》の席で誰れかが「一シン間も諸クンは……」と、小聲で口眞似して囁いた。一人がくすりと笑つた、續いてまた一人がくすりと笑つた。先生の詞には東北生れらしい怪しげな田舍《ゐなか》訛《なま》りと、それから起る變てこなアクセントが隱れてゐた。語調の可笑しさの正體がそれと知れてくると、その可笑しさが次から次へと移つて行つて、密《ひそや》かなどよめきが教室の中に漲《みなぎ》つた。そしてぢつと先生の顏を見詰めてゐた私達は、一人一人|俯向《うつむ》いて來て、先生の詞を聞くよりも、次第に腹の底から込み上げてくる可笑しさを堪《こら》へる爲めに、息の詰るやうな苦しい努力を續けなければならなくなつた。
「……。だから諸君にとつて國語學程重要な物はない。」先生はチョッキの釦《ボタン》に絡《から》んだ、恐らくは天麩羅《てんぷら》らしい金鎖を指でまさぐりながら、調子に乘つて饒舌《しやべ》つてをられた。その糞眞面目な、如何《いか》にも尤《もつと》もらしい先生の樣子を見てゐると、流石《さすが》に吹き出すのは憚《はばか》られたのである。が、たうとう我慢のならなくなつた笑ひ上戸《じやうご》の吉田が、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の締め殺されるやうな奇聲を上げて噴《ふ》き出《だ》してしまつたので、それに釣り出されたみんなの笑ひ聲が堤の切れたやうにどつと迸《ほとばし》つた。春の明るい光線を湛《たた》へた教室の中には、笑ひの波が崩れ合ひ縺《もつ》れ合つて、一時に湧き返つた。
「何《な》、何《な》、何故《なぜ》笑ふ。何が可笑しい……」さつきから教室の中に漲つてゐたざわめきを、薄々感じてゐたらしい先生は、私達の笑聲の爆發と共にかつとなつた。そして先生の顏の平面が急に崩れて、顏面筋が小波《さざなみ》のやうに痙攣《けいれん》したかと思ふと、怒りの紅潮がさつと顏中に走つた。
「怪《け》しからん、國語學が重要だと云ふのが何で可笑しい……」先生は教壇の板に靴底を叩き附けて立ち上つて、劇《はげ》しく呶鳴《どな》つた。
氣の毒な先生は、私達の笑ひの原因をすつかり誤解されてしまつた。その誤解の爲方《しかた》が、餘りに眞正直らしい先生の性格から産み出された物であると考へた時、その激怒の表情を痛ましく思つたのは私ばかりではなかつたらう。而もその先生に、單純な中學生の心理を巧に綾なして行く程の教授法以外の手管《てくだ》があらう筈もない。痛ましいとは思ひながらも、むきに腹を立ててしまつた先生の姿を見てゐると、やつぱり可笑しさが先に立つて、私も吹き出した。或る者は机を叩いた、或る者はぴゆつと口笛を鳴した、或る者はチェストオと小聲で叫んだ。教室は滅茶滅茶に混亂してしまつた。
「君達は私を侮辱するのか……」かう云つて更に詞を繼がうとした先生は、突然の興奮の爲めに唇が硬直してぐいと云ひ詰つた。そしてフロッコオトの長い尻尾《しつぽ》をぴくぴく顫《ふる》はせて、立ちすくんでしまつた。何分かが喧囂《けんがう》の内に過ぎた。血走つた先生の凹んだ眼には、その時涙さへ染《にじ》んで來たのである。
ふと部屋が靜かになつたので、思はず顏を上げて先生の姿を見詰めた時、輕い同情の念と幽かな悔い心がみんなの胸を過ぎたらしい。が、それに心附いた時は遲かつた。もとの眞面目さに返つて、この新しい先生を迎へようとした一人一人の心は、さうする爲めにはあたりの空氣が餘りに崩れ過ぎてゐるのをどうする事も出來なかつた。小さな渦は大きな渦に卷き込まれねばならなかつた。そしてまた中には、我知らず騷ぎ立ててしまつたうしろめたさを胡魔化《ごまか》さうとして、故意に再び喧囂の内に隱れようとした者さへあつたのである。
「諸君は諸君の……」さんざんな混亂の内に先生が退室された時、高木がわざとらしい道化《だうけ》た聲で呶鳴つた。みんなはそれに和してわいわい騷ぎ立てながら、教室を出て行つた。
この不幸な第一印象は先生と私達の心に、遂に最後まで埋め切れなかつた一ツの gap を造つた。快き第一印象は、時とすると惡しき第二第三の印象をも包まうとする。が、私達はその反對を先生との感情の中に味《あぢは》つた。そして全く單純な誤解に始まつた先生の私達に對する不快の氣持は、その日から漸次に色を深めて行くやうに思はれた。先生は何かと云ふと激昂された、詞に角を立てた。先生の、殆ど病的と思はれるばかりに鋭敏な神經は、私達の前に立つと何時《いつ》も苛立《いらだ》つてゐた。その顏には絶えず陰重な影が差してゐた。私達は先生の朗かに笑つた顏を一度も見たことはなかつた。先生は恰《あたか》も生存の歡びを忘れた人のやうに感じられたのである。
「面白くない先生だ。」と、私達は囁き合つた。「面白くない生徒だ。」と、恐らく先生も自らに呟いてをられたに違ひなかつた。
が、面白くない先生は猫又先生だけには限らなかつた。T中學校の教員室にも色々な性格を持つた先生達が集まつてゐたのである。頑迷その物の化身かと思はれるやうな教頭がゐた。半《なかば》禿げ上つた額、曲つた鼻、人情の何たるかを解しないやうな冷然たる眼。そして不幸な私達は聞いても聞いてゐられないやうな反感をそそられながら、その少
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