うとした先生は、突然の興奮の爲めに唇が硬直してぐいと云ひ詰つた。そしてフロッコオトの長い尻尾《しつぽ》をぴくぴく顫《ふる》はせて、立ちすくんでしまつた。何分かが喧囂《けんがう》の内に過ぎた。血走つた先生の凹んだ眼には、その時涙さへ染《にじ》んで來たのである。
ふと部屋が靜かになつたので、思はず顏を上げて先生の姿を見詰めた時、輕い同情の念と幽かな悔い心がみんなの胸を過ぎたらしい。が、それに心附いた時は遲かつた。もとの眞面目さに返つて、この新しい先生を迎へようとした一人一人の心は、さうする爲めにはあたりの空氣が餘りに崩れ過ぎてゐるのをどうする事も出來なかつた。小さな渦は大きな渦に卷き込まれねばならなかつた。そしてまた中には、我知らず騷ぎ立ててしまつたうしろめたさを胡魔化《ごまか》さうとして、故意に再び喧囂の内に隱れようとした者さへあつたのである。
「諸君は諸君の……」さんざんな混亂の内に先生が退室された時、高木がわざとらしい道化《だうけ》た聲で呶鳴つた。みんなはそれに和してわいわい騷ぎ立てながら、教室を出て行つた。
この不幸な第一印象は先生と私達の心に、遂に最後まで埋め切れなかつた一ツの gap を造つた。快き第一印象は、時とすると惡しき第二第三の印象をも包まうとする。が、私達はその反對を先生との感情の中に味《あぢは》つた。そして全く單純な誤解に始まつた先生の私達に對する不快の氣持は、その日から漸次に色を深めて行くやうに思はれた。先生は何かと云ふと激昂された、詞に角を立てた。先生の、殆ど病的と思はれるばかりに鋭敏な神經は、私達の前に立つと何時《いつ》も苛立《いらだ》つてゐた。その顏には絶えず陰重な影が差してゐた。私達は先生の朗かに笑つた顏を一度も見たことはなかつた。先生は恰《あたか》も生存の歡びを忘れた人のやうに感じられたのである。
「面白くない先生だ。」と、私達は囁き合つた。「面白くない生徒だ。」と、恐らく先生も自らに呟いてをられたに違ひなかつた。
が、面白くない先生は猫又先生だけには限らなかつた。T中學校の教員室にも色々な性格を持つた先生達が集まつてゐたのである。頑迷その物の化身かと思はれるやうな教頭がゐた。半《なかば》禿げ上つた額、曲つた鼻、人情の何たるかを解しないやうな冷然たる眼。そして不幸な私達は聞いても聞いてゐられないやうな反感をそそられながら、その少し鼻にかかつたねばり聲から、乾干《ひから》びきつた倫理の講義を授けられた。また小才子の英語の先生がゐた。生白い顏に、紅を塗つたやうな唇、そして張り物のやうにぴつたり分けた髮の毛。彼が小首を傾けて氣取りながら、生徒達の機嫌を窺《うかが》ふやうな眼附をして、にたりと笑ふ時、私達は蟲酸《むしづ》の走るやうな輕薄さを感じた。五萬圓の財産家たることを畢世《ひつせい》の理想としてゐた漢文の先生の憧憬。何かの式や遠足の時と云ふと軍服を着けて來て、日清日露役の從軍記章と、功六級の金鵄《きんし》勳章と、勳七等の青色桐葉章を得意氣にぶら下げた動物學の先生の稚氣、それ等は寧ろ氣持の好い先生達の愛嬌だつた。
私達は教頭を「つくね芋」と呼び、漢文の先生を「五萬圓」と呼んでゐた。これ等の多くの先生達の内、正確にその名を呼ばれてゐたのは既に學校を去られた歴史の杉山先生だけだつた。杉山先生の親しみ深い人格には仇名《あだな》を以て呼ぶ程の隙がなかつたからである。然し、私達が先生を仇名で呼ぶのは、必ずしも惡意や皮肉にばかり由來するのではなかつた。一體私達の感情から云へば、七尺去つて師の影を踏まずと云つたやうな儒教的道徳は、先生を餘《あまり》に冷たく嚴《いかめ》しくする inhumane な道徳であつた。先生を一個の偶像として遠くから崇敬するのは容易であるが、若々しい或る憧憬の絶間ない私達にとつて、それは餘に寂しいことであつた。私達は何處までも先生を温い懷しい人間として、近寄つて親しみたかつたのである。が、先生達は私達が親しめば親しまうとするだけ、自己の周圍に城壁を築いた。そして益々自己を偶像化さうとした。而《しか》も、時には偶像としての自己を壇上に置いて私達を冷《ひやや》かに見降さうとする矯飾的態度さへ現した。その態度を私達は冷笑したかつた。その城壁の隙間から見える先生達の固陋《ころう》さを碎いてしまひたかつた。
「つくね芋、五萬圓……」かう呼んでみる時、私達の心には期待を裏切られた腹いせの滿足と、偶像をこき降す小さな快感が潜んでゐた。同じ意味で、高橋順介先生は間もなく私達から「猫又」の仇名を奉られた。その仇名の由來はかうである。
丁度その頃、私達の使つてゐた國語讀本に「猫又」と云ふ小話が載つてゐた。
「猫又よ、やよ猫又よと申しければ……」と、先生はその中の一句を、田舍《ゐなか》訛《なま》りの可笑
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