た心のまま席に着いて、靜かに先生の顏に視線を集中した。
「私がこれから諸君のクラスを受け持つこととなつた。諸君は學生としての諸君の本分を……」先生は緩《ゆるや》かに腰を降して、出席簿を讀み終ると、やがてかう口を開かれた。みんなは從順な學生振りを示して、ぢつと傾聽してゐた。
目の前にして見ると、額の狹い、頬骨の角張つた、そして痩せこけた先生の顏附は、如何にも貧相で、如何にも神經質らしい感じを深くした。その聲は相變らず低かつたが、聞いてゐる内に時々聞き慣れない調子|外《はづ》れの音が混《まじ》つた。而も初めには誰も氣附かなかつたらしいが、それが一音二音と重なつてくるにつれて、何處となく語調が可笑《をか》しく響くのである。然し、思ひの外滑《なめら》かな詞《ことば》の運びと、引き續いてゐたみんなの愼《つつし》みの念が、その隙《すき》を探る餘裕を與へなかつた。
「一體諸君は、國語學と云ふと輕蔑する傾きがある。然しそれはとんだ間違ひで、諸君が日本の人間である以上、一瞬間も諸君は國語學を忽《ゆるがせ》にしてはいけない……」私達の靜肅さに氣を得た先生は、その顏に輕い興奮の色を見せて、國語學の我田引水論を試み始めた。先生の女のやうな細い聲に、やや氣《け》上《あが》つた調子さへ加はつて來たのである。
「さうだ、一瞬間も諸君は國語を離れることは出來ない。例へば文章を書くにしても……」先生は得意らしく身振り手振りで諄々《じゆんじゆん》と説き出したが、かうなつて來た時、私は先生の所論の如何にも陳腐なのに氣が附かずにはゐられなかつた。そればかりではない、話に上《うは》ずつて來た先生の風貌は眼慣れるに從つて、堪らなく貧弱な、下品な物に見えて來た。みんなの愼しみは漸次に崩れざるを得なかつた。そして心持に餘裕の生じてくると共に、そろそろ中學生らしい惡戲性が働き出して、意地惡く何かの隙を覘《ねら》ひ始めたのである。
――一瞬間も諸君は――と、その詞が二度目に先生の口を衝《つ》いて出た時、背後《うしろ》の席で誰れかが「一シン間も諸クンは……」と、小聲で口眞似して囁いた。一人がくすりと笑つた、續いてまた一人がくすりと笑つた。先生の詞には東北生れらしい怪しげな田舍《ゐなか》訛《なま》りと、それから起る變てこなアクセントが隱れてゐた。語調の可笑しさの正體がそれと知れてくると、その可笑しさが次から次へと移つて行つて、密《ひそや》かなどよめきが教室の中に漲《みなぎ》つた。そしてぢつと先生の顏を見詰めてゐた私達は、一人一人|俯向《うつむ》いて來て、先生の詞を聞くよりも、次第に腹の底から込み上げてくる可笑しさを堪《こら》へる爲めに、息の詰るやうな苦しい努力を續けなければならなくなつた。
「……。だから諸君にとつて國語學程重要な物はない。」先生はチョッキの釦《ボタン》に絡《から》んだ、恐らくは天麩羅《てんぷら》らしい金鎖を指でまさぐりながら、調子に乘つて饒舌《しやべ》つてをられた。その糞眞面目な、如何《いか》にも尤《もつと》もらしい先生の樣子を見てゐると、流石《さすが》に吹き出すのは憚《はばか》られたのである。が、たうとう我慢のならなくなつた笑ひ上戸《じやうご》の吉田が、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の締め殺されるやうな奇聲を上げて噴《ふ》き出《だ》してしまつたので、それに釣り出されたみんなの笑ひ聲が堤の切れたやうにどつと迸《ほとばし》つた。春の明るい光線を湛《たた》へた教室の中には、笑ひの波が崩れ合ひ縺《もつ》れ合つて、一時に湧き返つた。
「何《な》、何《な》、何故《なぜ》笑ふ。何が可笑しい……」さつきから教室の中に漲つてゐたざわめきを、薄々感じてゐたらしい先生は、私達の笑聲の爆發と共にかつとなつた。そして先生の顏の平面が急に崩れて、顏面筋が小波《さざなみ》のやうに痙攣《けいれん》したかと思ふと、怒りの紅潮がさつと顏中に走つた。
「怪《け》しからん、國語學が重要だと云ふのが何で可笑しい……」先生は教壇の板に靴底を叩き附けて立ち上つて、劇《はげ》しく呶鳴《どな》つた。
氣の毒な先生は、私達の笑ひの原因をすつかり誤解されてしまつた。その誤解の爲方《しかた》が、餘りに眞正直らしい先生の性格から産み出された物であると考へた時、その激怒の表情を痛ましく思つたのは私ばかりではなかつたらう。而もその先生に、單純な中學生の心理を巧に綾なして行く程の教授法以外の手管《てくだ》があらう筈もない。痛ましいとは思ひながらも、むきに腹を立ててしまつた先生の姿を見てゐると、やつぱり可笑しさが先に立つて、私も吹き出した。或る者は机を叩いた、或る者はぴゆつと口笛を鳴した、或る者はチェストオと小聲で叫んだ。教室は滅茶滅茶に混亂してしまつた。
「君達は私を侮辱するのか……」かう云つて更に詞を繼が
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