しな抑揚で高らかに讀み上げた。みんながどつと笑ひ崩れた。その可笑しさと、追ひ掛けられて逃げて行く猫又法師の姿を描いた文章の面白味と、先生の何處となく猫を思ひ出させるやうな風貌とが、その瞬間にひよいと結び着いた。私達は――猫又、猫又――と心の中に繰り返した。而も日が經つて行く内に、「猫又」の一語が表象するシニックな感じが、先生の人柄にぴつたり當《あ》て填《は》まるばかりでなく、それが巧に先生を諷し得てゐるやうな氣持がして來た。そして先生はたうとう「猫又さん」にされてしまつた。
――故に國語學は重要である――と、氣焔を擧げた先生は、時間の鐘が鳴ると、型の古い黒のモオニングに包んだ姿を機械的に教室へ運んで來た。そして何時も熱のない、退屈な講義を繰り返した。私達は先生の氣焔が餘に空言《そらごと》であつたのに、失望せずにはゐられなかつた。
或る時間に、先生は「方丈記」を講義された。丁度春の盛りの頃で、左手の窓の擦硝子《すりガラス》には自然の豐熟を唄ふやうな長閑《のどか》な日光が輝いてゐた。明るい教室の中にはもやもやした生暖い空氣が一杯に罩《こ》め渡つてゐた。半《なかば》開いた窓の隙間からは鮮かな新芽の緑が覗《のぞ》いて、カアテンの白をそよがす風もなかつた。ぢつと机に向つて腰掛けてゐると、けだるい先生の講義の聲が蜜蜂の翅音《はおと》のやうに聞えてくる。そしてともすれば肉の締りがほぐれて行くやうな氣持がして、快い睡魔が何時《いつ》となく體を包んで行くのである。片隅で誰かの幽かな鼾聲《いびきごゑ》が擽《くすぐ》るやうな音を立ててゐる。先生の講義は誰の耳にも這入つてゐなかつたらしい。
「あゝ、つまらん……」と、右後の席で上村が不意に呟いた。鹿兒島育ちの彼は、クラスの野次の音頭取《おんどとり》で、田舍丸出しの率直さがみんなに愛されてゐた。
「『朝に死し、夕べに生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける……』と云ふのは……」先生の牛の涎《よだれ》のやうな講義の聲はぱつたり止んだ。そしてふと顏を上げると、嶮《けは》しい皺を眉間《みけん》に寄せて上村を睨んだ。
「おい上村、今何と云つた。もう一遍云つて見ろ……」先生の眼は鋭く光つた。
みんなは思はず顏を上げて、先生を見詰めた。
「『あゝ、つまらん……』と云うたですばい。」
上村は落ち着き拂つて云つた。みんなはわつと笑ひ出した。足擦りの音と机を叩く音が入り混つて聞えた。
「馬、馬、馬鹿つ……」先生は顏に蚯蚓《みみず》のやうな青筋を立てて、上村の席に近寄つた。
「教室を何と心得る。お前は、お前は……」
「お前とは何です。僕は學生ですぞ。」
「生意氣云ふな。お前のやうな奴はお前で澤山《たくさん》だ。」先生はせき込みながら續けた。「一體、つまらんとは何の云ひ草だ。」
「つまらんけんつまらんですたい。分らんですか、シエんシエい……」
上村はけろりとした顏附で答へた。いきり立つた先生と、糞落ち着きに落ち着いた上村とのコントラストはまるでポンチ繪だつた。
「お前は己《おれ》を馬鹿にするのか、その分では濟まされないぞ。さあ教室を出ろ、出て行けつ……」先生の顏は蒼白に變つて、唇は怒りの爲めにぶるぶる顫《ふる》へてゐた。上村は空嘯《そらうそぶ》いて脇を向いた。不愉快な沈默が教室中に流れた。
「先生、『方丈記』の講義を續けて下さい。」と、級長の谷がわざとらしく叫んだ。「さうだ、さうだ……」と、みんなはまたそれにわざとらしく雷同した。先生は憎惡に燃えた眼で上村を見返りながら、舌打ちした。そして靴音荒く教壇に歸つた。讀本が再び手に取られた。
「質問があります。」と、哲學者としてみんなの尊敬を集めてゐた武井が、Pensive な瞳を上げて立ち上つた。
「何だ……」先生は我を守るやうに身構へた。
「先生の今講義なさいました『方丈記』の中には長明の人生觀の面白味があります。それに對する先生の御意見が伺ひたいと思ひます。字句ばかりの解釋では、國語なんて無意味です。」理智的な鋭さを持つた武井の蒼白い顏が、赧《あか》らんだ。どよめいた部屋の空氣がふと鎭まつた。意外な質問を受けた先生の顏には、狼狽の色が幽かに現れた。
「そ、それはある。長明は厭世家だ、この世を悲觀したのだ。つまりその頃の天災地變の哀れさを見て……」先生は口籠《くちごも》りながら云つた。
「それは分つてゐます。」と、武井が遮《さへぎ》つた。「長明の思想は佛教の輪※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]説《りんねせつ》の影響を受けた厭世思想だと思ひます。彼は天災地變に苛《さいな》まれる人生の焦熱地獄に堪へられなくなつて、この假現の濁世《ぢよくせ》穢土《ゑど》から遁《のが》れようとしたのです。そして解脱《げだつ》しようとしたのです。然し『方丈記』に現れた處では長明の思想は不徹
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