底です。のみならず、その厭世的態度には何となくわざとらしい、誇張されたやうな厭味《いやみ》があります。」武井の頭は何時も私達の世界を遠く先んじてゐた。私達が押川春浪の小説に熱中する時、彼は大西博士の「西洋哲學史」などを耽讀してゐた。彼が三年級の時、校友會雜誌に發表した「超人論」は私達には難解の文字だつたが、ニイチェの側面觀として杉山先生などの推稱を受けた。
「そんな事はどうでも好い……」先生は苦笑しながら、やや嘲《あざけ》るやうな態度でかう云つた。
「どうでも好くはありません、先生は私達に思想上の問題は無用だとおつしやるんですか。」と、武井は氣色《けしき》ばんで、鋭く迫つた。
「さうだ、さうだ……」と、みんなは譯もなく呟いた。そして部屋の中が再び煽動的氣分に卷き込まれようとした時、放課の鐘がさわやかに鳴り響いた。先生はみんなの冷嘲の囁きを背にして、遁《のが》れるやうに教室を出て行かれた。
互に楯《たて》を突き合ふやうな不愉快な時間が幾度か重《かさ》なつた。或る時は首藤に質問された「可《べ》かり可《べ》かる」の用法で、先生は一時間を苦しめられた。首藤は熱心な勉強家で國文法に特殊の興味と理解を持つてゐた。彼が細《こまか》く質問し始めると、先生は多くの場合無學さを曝露して答へることが出來なかつた。先生はその時もみじめな程の焦燥を見せて、何度か口籠つた。先生のねぢくれた感情が、首藤の質問を故意の時間潰しと思つたのは無理もない。そして仕舞ひには彼を口穢《くちぎたな》く罵《ののし》つた。
「何、分らん……これで分らんきやあ君は低能兒だ。」先生は本を教机に叩き着けて、劇《はげ》しく呶鳴《どな》つた。温良な首藤も流石《さすが》に興奮の色を見せて、激越な調子で先生に食つて掛かつた。先生の態度の邪慳《じやけん》さがみんなの反抗心を強めた。
春は何時《いつ》しか更《ふ》けて行つた。學校に隣つたT公園の杉林がその緑を日に増し深めて行くと共に、校庭の土の上に落ちる日の光が夏の近いのを思はせるやうに、ぎらぎらと輝き出した。そして化學教室の裏手の樹蔭が、帽子に白の覆ひを被《かぶ》せ始めた生徒達の好んで休む集合所となる頃には、猫又先生に對するみんなの不滿が次第に高潮して來た。先生の詞訛りの可笑しさに先づ敬意の幾分かを傷つけられた私達は、退屈な講義に倦怠を覺え、絶えず grimace の浮んだ顏附に不快な壓迫を感じた。その倦怠と不快な壓迫を遁れようとして盛に働いたみんなの惡戲性は、やがて疲れて來た。先生をからかつて苛立《いらだ》たせて得られる意地惡な面白味は、漸く薄れて行つた。そしてもつと現實的な飽き足りなさが、先生に對して感じられて來た。
「あんな先生に教はるのは損だ。」と、或る時首藤が云つた。「文法の一句が説明しきれないなんて、そんな馬鹿馬鹿しい教師があるもんか。」
「よつぽど頭が惡いな。」
「惡いとも、もう好い加減腦味噌が腐つちやつてらあ。」と、松川が云つた。
「然し、國語だつてしつかりやつとかなきやあ後悔するぜ。何處の入學試驗にだつて國語はあるからな。」と、一人が云つた。
「さうさ、馬鹿に出來るもんか。」と、級長の谷が云ひながら、足下の小石を蹴飛ばした。
「一體學問だつて、三年の時の大石さんの方がずつとあつたぜ。」と、また首藤が云つた。彼は先生の無學さを一番失望してゐた。
「あつたとも、まだあの人の方がましだつた。」
「だがね、學問があつたつてなくつたつて、あんな態度で教へられちやあ、不愉快で堪らないぢやないか。」と、私は反抗的な氣持で云つた。
「排斥しちやへ……」と、突然武井が叫んだ。行き着く處をそれとなく豫想してゐたみんなは、はつと思つて武井を振り返つた。そして何云ふとなく口を噤《つぐ》んでしまつた。
みんなの心の底を割つてみれば、先生に對して不滿や反感があつたにしても、流石《さすが》に排斥と云つたやうな強い詞を出すのは何となく憚《はばか》られた。殊にみんなは先生の人の好さ眞正直さを十分認めてゐた。認めてゐるだけに、今まで自分達が先生に對して取つて來た態度が、幾らかうしろめたい心持で省《かへりみ》られた。何故ならば、自分達の團結力を頼みにして、故意に先生の神經を苛立たせ、無理に先生の講義を分らない物にしてしまふやうな意地惡さがなかつたとは云へないから……、そしてもう少し柔かく靜かに迎へたならば、先生の氣持をあれ程までに擾亂《ぜうらん》させなかつたに違ひないから……。然し、各自は密《ひそ》かにさう思つてゐたにしても、クラス全體に行き亘《わた》つてゐる群衆心理はそれを容易《たやす》く征服した。そして或る一點へ進まうとする根強い力が既に兆《きざ》してゐるのをみんなは意識してゐた。その力に反抗する事はこの場合不可能であり、またそれを一人で裏切る事が何
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