等の效果にもならない事をよく知つてゐた。で、其處へ突然大膽に發言した武井の聲が響いたので、みんなは圖星を指されたやうな驚きを感じたのである。
「とに角あんな先生に教はらなくたつて好いんだ。」と、得能が或る瞬間の沈默の後に云つた。
「さうだ。學校に頼んで更《か》へて貰はう。更へてくれなきやあ最後の手段だ。」と、級長の谷が激越な態度で云つた。みんなは一種の叛逆的な氣分の快さに醉はされたやうに暗默裡に頷《うなづ》いた。先生の身に同情しようとする心の弱みは、みんなの胸に影もなくなつてゐた。
 二三日經つて、級長の谷以下のクラスの代表者六人から申し出た猫又先生更任願は、教頭の劇しい叱責と共に素氣《すげ》なく却《しりぞ》けられた。教頭は冷かな眼でみんなを見下しながら云つた。
「一體君等は學生の本分を何と心得てゐる、實に生意氣千萬な事だ。學校は君等に對して決して不適任な先生を授けやしない。考へて見給へ。これが若し軍隊の出來事で、高橋先生が君達の上官だつたとしたらどうなると思ふ。君達は上官に抵抗する者として、銃殺されぬとも限らない。」教頭は自ら比喩し得て妙と云はんばかりの倨傲《きよがう》な態度で云つた。禿げ上つた額のてらてらした艶が、見るから憎々しい尊大さで光つた。
「何、軍隊だつたら銃殺……」教頭の詞がクラスの一同に傳へられた時、かう聞き返して激昂したのは武井だつた。みんなはこれに和して憤慨の叫びを擧げた。舊套教育の傀儡《くわいらい》たる教頭の野蠻な比喩が、若々しい血潮の漲つてゐるみんなを憤らしたのは云ふまでもない。教頭の詞に對する反感は、却つて猫又先生に抱いてゐるみんなの不滿を高めてしまつた。
 六月の末、もう梅雨《つゆ》にかかつてしよぼ降る雨の鬱陶《うつたう》しい日が幾日となく續いた。それは或る金曜日の第三時間目で、その日も小止《をや》みない雨に教室の中は薄暗かつた。
「谷……武井……首藤……」と、型の如く先生が出席簿を讀み始めた時、教室の中は冷たい水底のやうにひつそりしてゐた。反響のない自分の聲の高さに氣が附いたらしい先生は、ひよいと顏を上げた。その時先生は、唖者に變つたやうな生徒達を眼前に見たのである。そして恐らく先生は、あたりの空氣が暴風の前の無氣味な
靜けさのやうに、ひしひしと自分の身に迫るのを感じられたに違ひなかつた。
「何故返事をしない……」先生は或る不安を豫感したやうにはつと息を引いたが、再び「何故返事をしない……」と呼ばはつた時、その顏色は蒼白く變つて、聲の餘韻が幽かに顫《ふる》へた。一人も答へなかつた。片唾《かたづ》を呑んだやうな教室の沈默は、先生の額の靜脈に注入してくる血液の流れを聞き分けられさうに澄みきつてゐた。
「何故返事をしない……」先生は殆ど發作的に立ち上つて、恐怖を包んだやうな表情を浮べながら、三度叫んだ。一人も答へなかつた。先生の顏には見る見る内に劇しい困惑の色が漲つた。そして捨鉢《すてばち》な舌鼓《したつづみ》の音が聞えたかと思ふと、黒板を背にして呆然と、まるで影法師か何かのやうに立ちすくんでしまつた。
 緊張した沈默が一分二分と過ぎて行つた。みんなは各自の胸から胸へ流れてゐる結合した心持の勝利を密かに感じながら、冷かに先生の姿を見詰めてゐた。
「一體君達は私をどうしようと云ふのだ。」先生は土氣色になつた顏を上げて云つた。
「君達は私に不平でもあるのか。」先生はまた云つた。その絞り出るやうな顫へ聲は、何時《いつ》か歎願的に變つてゐた。
 二三分が空《むな》しく流れた。しめやかに降り灑《そそ》いでゐた戸外の雨の音が、彈《はじ》くやうに私の鼓膜に響いて來た。
 クラスを代表して先生に宣言すべく期待されてゐた谷も武井も、ぢつと默り込んでゐた。いざとなるとやつぱり云へないんだ――私はかう思つて失望した。そのみんなの不甲斐なさに苛立つ感情と、途方に暮れた先生の姿を見てゐるもどかしさが、次第に私の胸の内に湧いて來た。そして徒《いたづら》に續いて行く沈默に焦燥する心持が、抑へても抑へきれぬ程私をじりじりさせた。唇の不隨意筋が自ら戰《をのの》き出すやうな、眼の血管にかつと血が押し寄せてくるやうな、鳩尾《みぞおち》が引き締められるやうな、さうした感情の興奮が私の全身に働いた。立ち上つて、みんなに先んじて、クラスの爲に勇敢に宣言する――さう思ふと、自分が非凡な勇者であるやうな氣持がして來た。
「何故默つてゐる……」先生は再び劇しい怒の色を見せて呶鳴つた。
「先生……」かう叫んで立ち上つた時、私はくらくらするやうな興奮に捉はれてゐた。が、その瞬間にもみんなの驚異の視線が一齊に自分に集中した事を、はつきり意識した。
「先生、私達は先生に不滿があるんです。」激越な態度で私は云つた。みんなは私の周圍から呻《うめ》くやうな呟きを上げ
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