道院の建物が遙かの丘に高く聳えてゐた。
「なんだ思つたより近いんですね……」私はKさんの後から云ひ掛けた。
 牧草は美しく刈り取られて、なだらかな傾斜をなした緑の原が私達の前に展がつた。遠くの方にはきらきら光る海峽を背景にして、牧牛の群が靜かに草を食《は》んでゐる。牧舍のあたりには小さな人影が動いてゐた。やがてその牧舍の陰から馬に牽かせた車が現れて、丘の方へ緩かに登つて行つた。それは干した牧草を小山のやうに積んでゐた。
 私は Millet の繪を想ひ出した。
 私達は草原の中の小道を靜かに歩いた。處處で蟋蟀が啼いてゐる。二人の足音が近づくとはたと啼き止む。草はまだ濕つてゐて、靴の先が濡れて光つた。近くの低い落葉樹は鮮かな赤に色づいて、沈んだ空氣の中にぢつと葉を重ねてゐた。
 小道が廣い眞直ぐな道に這入る處に灰色にくすんだ家があつて、人影が見えた。Kさんは私の方を振向いて、
「鳥渡訊ねて見ませう。」と云ひながら、中へ這入つて行つた。
 廣い緑の牧場と、靄にかすんだ海峽の水と、黄ばんだポプラの林と、赤煉瓦の清楚な修道院の建物と――それ等が秋らしい靜かな色の調和を作つて快く私の瞳に沁み渡つた。そして、この靜かな穩かな周圍の中に生きて行く修道士の生活がほのかに思ひ浮んだ。
 やがてKさんと一緒に、質素な詰襟の服を著て、黒塗の木靴をはいた、五十位の年配の人が出て來た。
「私が御案内致します。」と、彼は私の方を向いて輕く挨拶をした。細い眼、表情のない顏、白髮混りのまばらな頬髯が寂しい殉教者らしい感じを與へた。そして、その少し口ごもりながら話す聲は何時も低く、つつましやかだつた。絶對に無言な人達の中で、彼は外來者に對する唯一の話手であると聞いた。S氏と云つた。
 白い正門に向つた眞直ぐな道を左へ折れて、私達は牛舍の方へ歩いて行つた。なだらかな傾斜を登るにつれて、海峽の水が廣く遙かに見えて來た。
「牛は今六十頭をります。」などと、S氏は云つた。牛舍は見るからに美しく整頓してゐた。それから丘を登つて修道院の裏手に行くと牛酪《バタア》の製造場があつた。
「腕の續く限り働いて機械力を補ふんです。勞働の時間には院長始め修道士全部が働きます。それは熱心なものですよ。」と、S氏は貧しい機械を前にしながら云ふ。その日は丁度日曜だつたので爲事は休んで、祈祷が非常に多くなると云ふことであつた。
 三人がポプラの林の間を拔けて、修道院の建物に近づいた時、地下室から聲高な祈祷の聲を聞いた。明り窓から黒の僧衣を著た修道士の姿が見えた。
「修道士は無言だと云ふんぢやないんですか。」と、私は彼等の聲を聞きながら訊ねた。
「さうです。然し祈祷と説教と懺悔の時だけはありたけの聲を出します、それも羅甸語でなんです。」と、S氏は微笑しながら答へた。
「普通の會話が出來ないとすると、どうして相互の意志を通じるんですか。」と、Kさんは訊ねた。
「暗號が定めてあります。」
「暗號……不便ですなあ。」と、Kさんは私の方を振り向きながら、幽かな驚きの表情を浮べて輕く笑つた。
 修道院の傍にささやかな附屬會堂があつた。
「どうぞ此處で暫くお休み下さい。」と、S氏は云ひながら、私達を正面の室に導いた。そしてまた扉を締めて、出て行つた。彼の木靴の音が床に緩く響いた。
 室は自分の息が聞える程靜かであつた。
 重い、然し落ち著いた感じのする質素なテエブルと二三脚の粗末な椅子が置いてあるばかりで、地味な唐草模樣の壁紙が室を薄暗く思はせた。そして十字架の基督や、僧衣の人の像が其處に掛かつてゐた。やがて落葉頃のまばらな、ポプラの林に向いた窓から、しめやかな秋の光線が覗くやうに差してゐる。幹と幹、枝と枝との重りの間から、青い牧草の原と山の方へ登る道が見えた。私はKさんと言葉を交へながらも、自分の聲が肝高に響くやうな氣がしてならなかつた。そしていつ知らず二人の聲は密やかになつて行つた。
「ほんたうにしんとしてますね。一生こんな處に生活して行くなんて不思議なやうにお思ひになりませんか。」と、私はKさんに云つた。音響と色彩との強い刺戟の中に生きて行く都會の生活を私は思ひ浮べてゐた。
「さうですね。とても私には駄目ですよ。やつぱり我我のやうなものは、世間のごたごたの中に身を投げて、喜んだり苦しんだり悶えたりしながら、働いてゐてこそ生き甲斐があるやうに思ふんです。私にはとてもこんな生活の意味が分りません。」實務家のKさんはそんなことを云つた。そして語氣を改めて、
「一體實社會を離れて、信仰生活だけに沒頭することが人としての道に適ふのでせうか。」と、強く云ひ放つた。Kさんは彼の背後にある實社會の強い現實的な力を忘れることが出來ないやうに見えた。
「さあ、とに角私は彼等が自分を考へるやうに人のことも考へて貰ひたいと
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