に押し當てて、冷たい觸感を樂しみながら、私は舌苦い煙草を物憂い氣持で吸ひ續けてゐた。車室の中は政黨屋の話聲も途絶えて變にひつそり鎭まつてゐた。そして、車輪の響のみ高く何分間かが過ぎて行つた。
「くす、くす……」
堪へ忍んで堪へきれなくなつたやうな低い笑聲がふと私の耳に響いた。
「こりややりきれない……」
幽かな呟きがまた聞えた。
誘はれて思はずひよいと振り向くと、私の眼は金縁眼鏡の政黨屋の卑しく笑ひ忍んだ顔とぶつかり合つた。同時に、同じやうに笑ひ忍びながら女の寢姿の上に淫らな視線を注いでゐる赤鼻と、和服の男の顔に、私はふと氣が附いた。そして、何氣なく二人の視線の行手に眼を向けた時、私ははつとして顏を反けた。反けながら、また思はず女の亂れた寢姿を見返つた。が、折り立てた膝を覆つてゐる着物の裾が兩方へ垂れ下がつて、はだかつたその間にのぞいてゐる刺戟的な赤の友禪の長襦袢、そして、そのまた間から車體の搖れる度毎に……。刹那に其處までまざまざと眼に留めてしまつた時、私の胸を襲つたのは云ひ知れぬ不快な羞恥の感情であつた。私は無意識に顏を赧らめながら、視線を膝に遁れ伏せてしまつた。
「とんだお眼覺しだ……」
金縁眼鏡が上ずつた聲でぎこ[#底本では「きご」、170−9]ちなく呟いた。
「ふふふふふ……」
「へへへへへ……」
赤鼻と和服とが今度は抑へきれないやうな高聲で笑ひ合つた。そして「起きてゐるのは己達と君だけだよ……」と云はんばかりのふざけた表情で、下等な亨樂の相棒を見附け出したやうに揃つて私の方を振り返つた。私は踏みこたへた。そして、睨むやうに三人を見詰め返した。が、その脂ぎつた淫らな笑顏や、男の慾情をさらけ出したやうな眼の卑しげな光をまざまざと眼に留めると、何か知ら苛苛しい不快さに襲はれて、私はまた思はず顏を反けてしまつた。
「厭やな車室に乘り合はせてしまつたな。」
私はしみじみそんな氣がした。そして、すべてから切り離されてしまひたい氣持で暫くぢつと眼を閉ぢてゐた。が、車輪の響の間にひつつこく耳についてくる三人の喧しいざれ聲をどうする事も出來なかつた。
と、さうした間に何分かが過ぎて、やがて速度を弛め出した汽車は米原驛のプラツトホオムに靜に滑り入つた。何時しか雨は降り止んだらしく、汽車がとまると、車室の中は急にひつそりして、寢落ちた人達のいびき聲が高くあたりに聞えて來た。私は車窓から身を起しながら、薄眼にそつと女の方を振り返つた。が、一そう寢亂れたそのしどけない姿は? 何か顏をぐいと抑へられるやうな氣持で我知らず反けようとした眼を留めながら、今度は多少の好奇心も手つだつて、私は女の姿をじろりと一眼見透した。
人の寢亂れ姿を眺める――それは寧ろ厭ふべき事に違ひなかつた。が、讀みさしの雜誌を屋根型に顏に伏せて、白肥りに贅肉づいた右手を腰掛の外に投げ出し、折り立てた足のはだけた裾の間から脛さへあらはになりかかつたその姿は、それが汽車の中で、わけても美裝した女であるだけに誰もの眼を強く惹きつけるに十分だつた。が、それを一眼見透した私の氣持は、人の秘密を偸み見たあとのやうないひ知れぬ不快さが一杯だつた。そして、その不快さに交る幽かな羞恥の念を意識しながら、私は直ぐ視線を外へ移した。と、何時眼ざめたのか、私と向ひ合せの頭の禿げた、商人らしい中年の男も、煙草の紫烟の間に薄笑ひを洩らしながら、じろりじろりと女の方を眺めてゐた。
「いや、これはどうも……」
次の刹那に、私とばつたり顏が合つた時、男はさういつた表情で、明かに或る不快な感情の籠つた笑ひをにやりと私に洩らした。
車室には昇降の客もなく、やがて停車時間も過ぎて、汽車は米原驛を離れた。
私は漸く眠りつけさうな氣持になつて來たので、鞄を置き換へ、その上にのせかけた空氣枕に身を凭せながら眼をふさいだ。女も、まだしやべり續けてゐる三人の男も、山路に差しかかつたらしい機關車の喘ぎも、何時となく意識からうすれて行つた。そして、私は知らない間に何かに誘はれるやうに、深く眠り落ちてしまつた。
………………
幾時間を過ぎたのであらう?
耳元に喚き立てるやうな聲を聞きつけて、私はがくりと眼をさました。眼を開く、顔を上げる耳を澄ます、ぼやけた意識の焦點を合せようとする。その途端だつた。
「怪しからん。――つまる處、お前達の注意不行届なからぢや……」
と呶鳴りつけた赤鼻の聲が耳に響いた。私ははつとして起き上つた。見返ると、政黨屋の三人が乘客專務と車室附のボオイと向ひ合つて、可成り興奮した樣子でしやべつてゐる。乘客達の大半は起き上つて、ねぼけたやうな眼でその論爭を眺めてゐるのであつた。
「何が始まりましたんです?」
煙草を吸つてゐた隣の砲兵少佐に、私はそつと訊ねかけた。
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