「いや、物がなくなつたらしいんです。あの人達の……」
少佐は四角ばつた聲で答へ返した。が、咄嗟に私に振り向けた視線には幽かな冷嘲の色が浮んでゐた。
「ほお……」
私は輕い不安の念に捉はれながら、少佐に頷いた。が、被害者が政黨屋の三人だといふ事から、ふと胸を掠め過ぎた一種の反撥的な快さを、私は打ち消し得なかつた。
「一體、どんな樣子の男でございましたかね?」
乘客專務の若い車掌は落ち着き拂つた聲で、三人に問ひかけた。
「しつかりは覺えとらんが、鼠のインバネスを着た、二十六七の、頬骨の高い男だつたよ。」
赤鼻はいきり立つた樣子で答へた。
「なる程。それで岐阜で降りたといふんでございますね?」
「飛び降りでもしない限り先づさうだね。――米原までは確に僕の隣にゐたんだから……」
金縁眼鏡がさう詞を挿んだ。
「宜しうございます。――名古屋から直ぐ電報を打つときますから……」
車掌の聲は相變らず靜かだつた。
「それでおなくなり物は手鞄が一個、懷中時計――金側でございますね――が一個、それからあなたとあなたの紙入――金額は?」
車掌は問ひ續けた。
赤鼻と和服とは小聲に何かを車掌に答へた。車掌はそれを手帳に書き留めた。
「どうぞ皆さん、くれぐれも御注意下さいますやう……」
やがて車掌はかういひ殘して、ボオイを伴ひながら車室を出て行つた。三人は悄氣返つた樣子でそのうしろ姿を見送つてゐた。
車内は暫く變に鎭まり返つた。
「とんだ目にお會ひでしたな……」
中年の商人が禿げた頭を振り立てながら、ふと遠くから聲かけた。
「いや、災難です。――然し、油斷のならない奴がゐるものですな。」
赤鼻が同情を求めるやうに相槌打つた。
「さやうさ、私もどうも怪しい奴だとは思つてましたがね。」
商人はいひ重ねた。
三人の方に我知らず氣を取られてゐた私は、その詞に暗示されてふと女の方を振り返つた。と、知つてか知らずか、さつきまでの醜體にも恬然とした表情で、何時の間にかきちんと身仕舞をととのへて、女は腰掛の上に坐り込んでゐた。そして、冷笑を含んだやうな視線をじろりじろりと政黨屋達の顏に注いでゐた。――氣を呑まれて、私はちよつと息もつけないといつた氣持だつた。
「紙入や時計はどうでも好いが、さしづめ困るのは手鞄だ……」
赤鼻はふと和服を振り返つた。
「困りましたなあ、全く……」
和服は呟きながら、懷を撫で廻した。
白けたやうな沈默が暫く續いた。
「鐵道院へ嚴談してやらにやならん。――不埓きはまる……」
やがて赤鼻は、それが精一杯の欝憤だといふやうな聲で毒毒しく呟いた。そして、取り澄ました眼の前の女の顏にじろりと眼をくれながら、厚い唇をふつとふくらましながら溜息づいた。
………………
汽車が名古屋に着いたのは十二時近くであつた。と、腰掛にぢつと坐り込んでゐた女は靜に空氣草履をはいて、寢倒れた乘客達や、卑しげな眼を向けてゐる政黨屋達の姿を尻目にかけるやうにして、呼び入れた赤帽に旅行鞄を、そして、右手にオペラパツク、左手にパラソル[#底本では「バラソル」、185−14]をと、はいつて來た時の樣子さながらにそそくさと車室を出て行つた。
私は窓をあけて冷たい風に頬吹かせながら、プラツトホオムを急ぎ足に歩いて行く女の姿をぢつと見送つてゐたが、遠くのブリツヂの階段を二つの白い點のやうに撥ね上る白足袋がふと視野から消えた時、
「二人はぐる[#「ぐる」に傍点]だつたんだな……」
さうした意識が不意に鋭く頭の中に閃いた。私ははつとして思はず息を呑んだ。そして、そのままそつと腰掛に坐り直して自分を振り返り、詞もなくぽかんとした表情で並んでゐる政黨屋の三人の顏をちらと見返したが、刹那の思掛ない發見に對する驚きが消えた時、私はぷつと吹き出したいやうな氣持になつた。自分を、三人を思ふ樣せせら笑つてやりたいやうな……。
けたたましい汽笛を夜闇の中に鳴り響かせながら、やがて汽車は靜にゆるぎ出した。
底本:「若き入獄者の手記」文興院
1924(大正13)年3月5日発行
入力:小林徹
校正:柳沢成雄
2000年2月19日公開
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