「ふむ。――何しろ地盤ぢやからね。今度はこつちも苦戰ぢやらう。」
 「また先生の御出馬を……」
 「いや。――はつはつはつは……」
 振り返ると、政黨屋の三人は人もなげな聲で、またそんな風に話し始めた。まん中に脂肥りのした體を紺の背廣服に包んだ中年の紳士、赧ら顏に赤鼻、厚い唇、白チヨツキの胸にからんだ太い金鎖の感じからが、どう見ても黨の有力者とでも云はれさうな代議士らしかつた。それを左右から挾んでゐるのは院外團の參謀とか、御用新聞の政治記者とか云つた手合であらう。髪を脂で固めたやうに分けた、揃ひも揃つて色の生白い、眼附に卑しい光のある三十四五の男である。赤革靴に霜降の流行型の背廣を着た方は金縁眼鏡を掛け、和服の方は羽織を脱いだ着流し姿になつて、毛もくぢやらの足を腰掛下に突き出してゐる。二人は取り巻きらしい態度で絶間なく赤鼻の男に話しかけるのである。と、彼は口髯を撫で上げたりしながら鷹揚作つた樣子で二人に相槌を打つ。が、三人が向ひ合せの女に意識を奪はれてゐる事は、時時偸むやうに女に注ぎかける視線でも知られた。
 「こりや面白い……」
 乘り合せた初めから三人の耳障りな話聲、厚かましい物ごしに幽かな反感を感じてゐた私は、女に對する反撥的な氣持も手傳つて、密に心にそんな事を呟きながら、横になる事も忘れてかはるがはる女と三人との間のアバンチユウルに興味[#底本では「輿味」、175−12]の眼を送つてゐた。
 窓外の雨は急に降りまさつて來たらしく、窓硝子を傳つて流れ落ちる水玉が玉簾のやうに動いて行く。何時しか汽車は逢阪山に差しかかつたのであらう。喘ぎ登る機關車の車輪の響が篠つく雨音の間に絶え絶えに傳はつてくる。ふと車内を見廻すと、女と三人の紳士を除いた外は、向う隅の若夫婦も、それと隣り合つた老婆の二人連れも、私の眞向うの頭の禿げた中年の商人風の男も、私の右隣の砲兵少佐も、その間に女を置いた一つ向うの二人の子供連れの何處か役人らしい夫婦も、車窓に凭り、鞄に肱をつき、或は腰掛に長長となつて、夜行列車らしいいぎたなさ[#「いぎたなさ」に傍点]で寢込んでゐる。三人の紳士の隣に腰掛けたインバネスの男は腕を組んだまま、頭を硝子窓にもたせかけてゐる。が、つぶりながらも時時引きつる瞼で、彼がまだ寢落ちてゐない事は確かだつた。
 「どうぢやね、君等の方の鐵道敷設問題は? 請願委員の上京にはだいぶ大臣の方でもてこずつてゐるやうぢやが……」
 「いや、相變らずごたついてゐますので……」
 「さうか。――だが、要は金にありさ。」
 「御尤も。――然し、何分地盤にも關係しますことで……」
 「ふうむ。――困つたものぢやね。」
 私もやがて車窓に身を凭せながら眼を閉ぢたが、あたり憚らない政黨屋の話聲は相變らず小うるさく耳についてくる。九時も過ぎたのであらう。睡魔を感じながらも、私は何故か眠りつけなかつた。と、程もなくけたたましい反響と共に汽車はトンネルにはいつた。私は諦めて、また眼を開いた。そして、本でも讀まうとする氣持になりながら、明りのうす暗くなつたやうな車室の中を何氣なくぐるりと見廻した。
 と、女は何時の間にか腰掛の上に横になつてゐた。木枕型の赤い空氣枕に頭をのせ、膝を折り立てながら、向う向きになつたまま講談雜誌らしいものを讀んでゐるのである。それが羽織もぬがないで、着物がしどけない姿に着崩れてゐる。そして、赤い襦袢の襟とたぼの後れ毛との間の白粉燒のした襟足が、電燈の光にまざまざしく照し出されてゐるのが不愉快に蠱惑的だつた。政黨屋の三人はさりげなく話し合ひながらも、時時じろじろとその女の寢姿を眺めてゐる。瞬間、赤鼻の男の口元を過ぎた卑しい微笑に氣が附くと、私は譯もなくはつとして顏をそむけた。
 汽車は雨音のみ繁い大津の停車場に止まつて、また間もなく動き出した。私は車室の仕切り板の方に顏を向けながら暫く雜誌を讀み耽つてゐたが、時時無意識にとろとろと眠り落ちる。やがて、雜誌を傍に投げ捨てると、私は車窓に顔を凭せかけて眼をつぶつた。然し、求めて眠らうとすると、私は何故か眠れないのであつた。そして、そのまま私はうつらうつらしてゐた。
 或る時間が過ぎた。それでも私は何時とも知らず眠り落ちてゐたのであつた。車體のがくりとしやくるやうな動搖にふと我に返つた私は、何處とない體の不快な痛みを感じて起き上つた。そして、焦點を喪つた眼でうす暗い感じのする車室の中を見るともなく見廻すと、私は煙草に火を點けて吸ひ出した。硝子窓の曇りをぬぐつてみる。眼の焦點がだんだんに合つてくる。と、暗い夜闇の中に鈍く光る湖水の面がぼんやり瞳に映つた。
 「まだ琵琶湖のふちか……」
 呟きながら、私は時計を見た。何時しかもう十時近くであつた。
 其處ばかりもやつとほとぼつた氣のする顏を硝子窓
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