高くあたりに聞えて來た。私は車窓から身を起しながら、薄眼にそつと女の方を振り返つた。が、一そう寢亂れたそのしどけない姿は? 何か顏をぐいと抑へられるやうな氣持で我知らず反けようとした眼を留めながら、今度は多少の好奇心も手つだつて、私は女の姿をじろりと一眼見透した。
 人の寢亂れ姿を眺める――それは寧ろ厭ふべき事に違ひなかつた。が、讀みさしの雜誌を屋根型に顏に伏せて、白肥りに贅肉づいた右手を腰掛の外に投げ出し、折り立てた足のはだけた裾の間から脛さへあらはになりかかつたその姿は、それが汽車の中で、わけても美裝した女であるだけに誰もの眼を強く惹きつけるに十分だつた。が、それを一眼見透した私の氣持は、人の秘密を偸み見たあとのやうないひ知れぬ不快さが一杯だつた。そして、その不快さに交る幽かな羞恥の念を意識しながら、私は直ぐ視線を外へ移した。と、何時眼ざめたのか、私と向ひ合せの頭の禿げた、商人らしい中年の男も、煙草の紫烟の間に薄笑ひを洩らしながら、じろりじろりと女の方を眺めてゐた。
 「いや、これはどうも……」
 次の刹那に、私とばつたり顏が合つた時、男はさういつた表情で、明かに或る不快な感情の籠つた笑ひをにやりと私に洩らした。
 車室には昇降の客もなく、やがて停車時間も過ぎて、汽車は米原驛を離れた。
 私は漸く眠りつけさうな氣持になつて來たので、鞄を置き換へ、その上にのせかけた空氣枕に身を凭せながら眼をふさいだ。女も、まだしやべり續けてゐる三人の男も、山路に差しかかつたらしい機關車の喘ぎも、何時となく意識からうすれて行つた。そして、私は知らない間に何かに誘はれるやうに、深く眠り落ちてしまつた。
 ………………
 幾時間を過ぎたのであらう?
 耳元に喚き立てるやうな聲を聞きつけて、私はがくりと眼をさました。眼を開く、顔を上げる耳を澄ます、ぼやけた意識の焦點を合せようとする。その途端だつた。
 「怪しからん。――つまる處、お前達の注意不行届なからぢや……」
 と呶鳴りつけた赤鼻の聲が耳に響いた。私ははつとして起き上つた。見返ると、政黨屋の三人が乘客專務と車室附のボオイと向ひ合つて、可成り興奮した樣子でしやべつてゐる。乘客達の大半は起き上つて、ねぼけたやうな眼でその論爭を眺めてゐるのであつた。
 「何が始まりましたんです?」
 煙草を吸つてゐた隣の砲兵少佐に、私はそつと訊ねかけた。
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