處女作の思ひ出
南部修太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)夜氣《やき》の

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)工場|附屬《ふぞく》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)持つてゐた、[#底本では句点]
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 忘れもしない、あれは大正五年十月なかばの或《あ》る夜のことであつた。秋らしく澄《す》み返つた夜氣《やき》のやや肌《はだ》寒《さむ》いほどに感じられた靜かな夜の十二時近く、そして、書棚の上のベルギイ・グラスの花立《はなだて》に挿《さ》した桔梗《ききやう》の花の幾《いく》つかのしほれかかつてゐたのが今でもはつきり眼の前に浮んでくるが、その時こそ、私は處女作《しよぢよさく》「修道院の秋」の最後の一行を書き終つて、人無き部屋にほつと溜息《ためいき》つきながら、机の上にペンを置いたのであつた。それは處女作《しよぢよさく》と云《い》ふにも恥《はづか》しいやうな小さな作品ではあつたが、二十日近くのひた向きな苦心努力にすつかり疲れきつてゐた私は、その刹那《せつな》、深い嬉しさとともに思はず瞼《まぶた》の熱くなるのを禁じ得なかつた。
 云《い》ふまでもなく、如何《いか》なる作家にとつても處女作《しよぢよさく》を書いた當時《たうじ》の思ひ出ほど懷《なつか》しく、忘れ難《がた》いものはあるまい。いや、たとへ、世に知られた作家ではなくとも、小學校へはひつて文字を習ひ覺《おぼ》え、幼《をさな》い頭にも自分の想《さう》を表《あらは》すことを知つて、初めて書き上げた作文に若《も》し思ひ出が殘《のこ》るならば、それは人人《ひと/″\》の胸にどんな氣持を呼び起すことであらうか? また世の蔭《かげ》にひそんで人知れず自己の作品を書き努める無名の作家、雜誌《ざつし》への投書を樂しむつつましき文藝愛好者、そこにもそれぞれに懷《なつか》しく、忘れ難《がた》い處女作《しよぢよさく》の思ひ出は隱《かく》れてゐることであらう。そして、その完成までの苦心努力が深ければ深いほど、思ひ出は時には涙ぐみたいほど痛切《つうせつ》であるに違ひない。
 その年の八月初めであつた。私は膽振《ゐぶり》の國の苫小牧《とまこまい》に住む妹夫婦の家を訪ふべく、初めての北海道の旅路《たびぢ》についた。東京を立つてから山形、船川港《ふなかはかう》、弘前《ひろさき》、青森、津輕《つがる》海峽を越えて室蘭《むろらん》と寄り道しながら、眼差す苫小牧《とまこまい》へと着いたのが七八日頃、それから九月へかけてのまる一ヶ月ほどを妹夫婦の家に暮《くら》した。苫小牧《とまこまい》は製紙工場のあるだけで知られた寂しい町で、夏ながら單調な海岸の眺めも灰色で、何となく憂欝《いううつ》だつた。そして、ゴルキイの小説によく出てくる露西亞《ロシア》の草原《ステッペ》を聯想《れんさう》させるやうな、荒涼《くわうりやう》とした原の中に工場と、工場|附屬《ふぞく》の住宅と、貧しげな商家農家の百軒あまりがまばらに立ち並び、遠く北の方に樽前山《たるまへさん》の噴火の煙が見えるのも妙に索漠《さくばく》たる感じを誘つた。
 けれども、そんな處《ところ》に毎日を暮しながらも、私の氣持は絶えず一つの興奮の中にあつた。それはその半年ほど前からひそかに想をかまへてゐた「雪消《ゆきげ》の日まで」と云《い》ふ百枚ばかりの處女作《しよぢよさく》をここで書き上げようと云《い》ふ希望が、私の全身を刺戟《しげき》してゐたからだつた。で、私は異郷《いきやう》に遠く旅出《たびで》して來《き》ながらあんまり出歩くこともせずに、始終《しじう》机に向つてはその執筆に專心《せんしん》した。私は眞劍《しんけん》に、純眞《じゆんしん》に努めつづけた。そして、それに深く疲れる時いつも頭を休めに行つたのは、家から寂しい草原《くさはら》の小徑《こみち》を五六町|辿《たど》る海岸の砂丘《さきう》の上へであつた。そこは町からも可成《かな》り離れてゐて、あたりには一軒の家もなく、人影も見えず、ただ「濱《はま》なし」と云ふ野薔薇《のばら》に似たやうな赤い花がところどころにぽつぽつ咲いてゐるばかりであつたが、その砂丘に足を投げ出して涯《はてし》ない海の暗い沖の方に眺め入つたり、また仰向《あふむ》きに寢ころんで眼もはるかな蒼穹《さうきう》に見詰め入つたりしながらも、私はほんとに頭を休める譯《わけ》には行かなかつた。そこにはどう筆《ふで》をつづくべきか、どう描《か》き現《あらは》すべきか、あれでぴつたりしてゐるか、あれでは力が足りないではないか、そんなことが絶えず一杯になつてゐたのであつた。
 さうして五日過ぎた。十日過ぎた。やがて半月たつた。が、苦心努力は空《むな》しかつた。明るい興奮は次第に暗い失望へ
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