と沈んで行つた。そして、筆は遲遲《ちち》として進まず、意を充《み》たすやうな作は出來上らずに、徒《いたづら》にふえて行くのは苛苛《いらいら》と引き裂き捨てる原稿紙の屑《くづ》ばかりであつた。
「どうしたのだ? こんな情《なさけ》無《な》い自分だつたのか?」
 さう心の中に呟《つぶや》きながら、或《あ》る日私は「濱なし」咲く砂丘の上で寂しさ悲しさに一人涙ぐんでゐた。それはもう八月の末で、夏の日の短い北國の自然はいつとなく寂しく秋めいて、海から吹き流れてくる風も冷冷《ひやひや》と肌寒かつた。そして、小徑《こみち》の草の葉蔭には名も知らぬ秋の蟲《むし》がかぼそい聲《こゑ》で啼《な》いてゐた。
 あれほど希望に全身を刺戟《しげき》されてゐた處女作《しよぢよさく》はとうとう一枚も書き上らないままに、苫小牧《とまこまい》滯在《たいざい》の一月ほどは空しく過ぎてしまつた。希望に變《かは》る失望、樂しさに變《かは》る寂しさ、さうした氣持を抱いて、私は九月十日過ぎに妹を伴ひながら苫小牧《とまこまい》をあとにした。妹は翌年の三月頃の初産《うひざん》を兩親のゐる私の家で濟《す》ますために暫《しばら》く上京するのであつた。で、私は妹のその大事な體《からだ》をいたはるために歸京《ききやう》の旅路を急がずに、今度は行きと道を變《か》へて札幌と大沼公園にそれぞれに一泊しながら、函館市外の湯の川温泉に着いたのは十三日だつた。その翌日の、忘れもしない十四日の朝、それは時時《ときどき》うすれ日の射す何となく陰鬱《いんうつ》な曇り日だつたが、私は疲れてゐる妹を宿《やど》に殘《のこ》して一人|當別村《たうべつむら》のトラピスト修道院へ向つた。
 修道院へ――それは、私が北海道へ旅立つ以前から樂しみ憧憬《あこが》れてゐた、深く心惹《こゝろひ》かれる一つの眼あてであつた。函館の棧橋《さんばし》からそこへ通ふ小蒸汽船に乘つて、暗褐色《あんかつしよく》の波のたゆたゆとゆらめく灣内《わんない》を斜《なゝめ》に横切る時、その甲板《かんぱん》に一人|佇《たゞず》んでゐた私の胸にはトラピスト派の神祕な教義と、嚴肅《げんしゆく》な修道士達の生活と、莊重《さうちよう》な修道院の建物と、またそこにみなぎる美しくも清らかな空氣とをいろいろに空想し思ひ描く一種の敬虔《けいけん》な氣持が充《み》ち滿《み》ちてゐた。そして、そこへ近づくその刻一刻には處女作《しよぢよさく》を書き上げ得られなかつた寂しさ悲しさも、すつかり忘れてゐたのであつた。
 今ここに、その時訪ねた修道院の印象なり感じなりを述べることは、既に「修道院の秋」の中に書き盡《つく》したことであるから、はぶくことにしたい。が、とにかくその日の四五時間を觸《ふ》れ過《すご》した修道院のすべては、たとへばそこに住む修道士達の生活も、單《たん》なる建物の感じそのものも、その建物をとり卷く自然の情景も、いや、眼に觸《ふ》れ、耳に響き、心に傳《つた》はつた些細《ささい》な見聞のあらゆるものまでが、私にとつては深い感激であり、驚異であり、讚美であり、欽仰《きんかう》であつた。
「この穢土《えど》濁世《だくせい》にこんな人達が、こんな人間生活が、そして、こんな地域があつたのか? いや、あり得たのか?」
 私が殆《ほとん》ど全身的に搖り動かされたのは、さう云《い》ふ事實《じじつ》の發見であつた。
 當別岬《たうべつみさき》から再び小蒸汽船に乘《の》つて函館へ歸《かへ》る私は、深い感動をうけたあとの敬虔《けいけん》な沈默《ちんもく》の中にあつた。そして、つつましやかな氣持で甲板《かんぱん》の一隅《ひとすみ》にぢつと佇《たゝず》みながら、今まで心の中に持つてゐた、[#底本では句点]人間的なあらゆる醜《みにく》さ、濁《にご》り、曇り、卑《いや》しさ、暗さを跡方《あとかた》もなくふきぬぐはれてしまつたやうな、美しく澄《す》み落ち着いた自分になつてゐた。修道院の莊嚴《さうごん》な、神祕《しんぴ》な清淨《せいじやう》な雰圍氣《ふんゐき》が私のすべてを薫染《くんせん》し盡《つく》してゐたのであつた。
「人間はあんなにまでも美しく清らかに生きて行くことが出來るのだ。」
 ふとさう呟《つぶや》きながら、私は瞳《ひとみ》を返して遠くなつた修道院の方を振り返つた。が、その時ポプラの林を背景にした建物の姿はもう岬の蔭《かげ》に隱《かく》れてゐた。私はそこに強く心を惹《ひ》かれるとともに堪《た》へ難いやうな離愁《りしう》を感じて、そのまま瞳《ひとみ》を膝《ひざ》に伏《ふ》せてしまつた。
 一時間ほどして船が再び棧橋《さんばし》に着いた時、函館《はこだて》の町はしらじらとした暮靄《ぼあい》の中に包まれてゐたが、それは夕《ゆふ》べの港の活躍の時であつた。そこには修道院のそれとはまる
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