描《ゑが》き出してゐるではありませんか。かうなつて來ると、一體私は内容《ないよう》の方に心を惹《ひ》かれるものですが、とても形式方面の缺點《けつてん》や非難《ひなん》を顧《かへり》みる暇はありません。その描《ゑが》かれてゐる事に對して、作の大きな尊《たふと》さを感《かん》じて了ふのです。無論|作品《さくひん》といふものに、表現形式《へうげんけいしき》の完全《くわんぜん》といふ事は必要《ひつえう》な事ですが、表現の如何《いかん》を問はず、作者《さくしや》がかういふ意味《いみ》に眞實《しんじつ》を捉へて、それを適確《てきかく》に現はし得てゐるとすれば、そこに最う深《ふか》い作の意味《いみ》があるのではありますまいか。私は又氏の「流行感冒と石[#「流行感冒と石」に白三角傍点]」といふ作品《さくひん》を讀んで、氏が日常生活《にちじやうせいくわつ》の出來事から、如何《いか》に深く人生の眞實《しんじつ》を捉へ得てゐるかといふ事を、しみ/″\感じずには居られませんでした。
底本:「文章倶樂部」新潮社
1920(大正9)年3月1日発行
入力:小林 徹
校正:鈴木厚司
2007年11月19日
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