構圖《こうづ》や形式《けいしき》に對する缺點《けつてん》を蔽《おほ》[#ルビの「おほ」は底本では「お」]ふ丈けに、作の内容が深《ふか》い爲《た》めに、この作の有《も》つ尊《たふと》さを主張《しゆちやう》して止まなかつたのです。こゝらにも各人が作の價値《かち》を批判《ひはん》する心持の相違《さうゐ》があると見えますが、「和解[#「和解」に白三角傍点]」に描《ゑが》かれてゐる作のテエマ、即ち父と子の痛《いた》ましい心の爭鬪《さうとう》に對して働《はたら》いてゐる作者の實感《じつかん》[#ルビの「じつかん」は底本では「じんかん」]、主人公の心の苦悶《くもん》に對する作者の感情輸入《アインヒウルング》の深《ふか》さは、張り切つた弦《ゆづる》のやうに緊張《きんぢやう》[#ルビの「きんぢやう」はママ]した表現《へうげん》と相俟つて、作の缺點《けつてん》を感《かん》じる前に、それに對して感嘆《かんたん》してしまひます。その父《ちゝ》と子の心と心とが歔欷《きよき》の中にぴつたり抱き合ふ瞬間《しゆんかん》の作者《さくしや》の筆には、恐ろしい程|眞實《しんじつ》な愛《あい》の發露《はつろ》を鋭《するど》く描《ゑが》き出してゐるではありませんか。かうなつて來ると、一體私は内容《ないよう》の方に心を惹《ひ》かれるものですが、とても形式方面の缺點《けつてん》や非難《ひなん》を顧《かへり》みる暇はありません。その描《ゑが》かれてゐる事に對して、作の大きな尊《たふと》さを感《かん》じて了ふのです。無論|作品《さくひん》といふものに、表現形式《へうげんけいしき》の完全《くわんぜん》といふ事は必要《ひつえう》な事ですが、表現の如何《いかん》を問はず、作者《さくしや》がかういふ意味《いみ》に眞實《しんじつ》を捉へて、それを適確《てきかく》に現はし得てゐるとすれば、そこに最う深《ふか》い作の意味《いみ》があるのではありますまいか。私は又氏の「流行感冒と石[#「流行感冒と石」に白三角傍点]」といふ作品《さくひん》を讀んで、氏が日常生活《にちじやうせいくわつ》の出來事から、如何《いか》に深く人生の眞實《しんじつ》を捉へ得てゐるかといふ事を、しみ/″\感じずには居られませんでした。



底本:「文章倶樂部」新潮社
   1920(大正9)年3月1日発行
入力:小林 徹
校正:鈴木厚司
2007年11月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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