巧すぎるといふ事丈けは否定《ひてい》出來ないと思ひます。何故ならば、氏の心理解剖《しんりかいばう》は何處《どこ》までも心理解剖で、人間の心持を丁度《ちやうど》鋭《するど》い銀《ぎん》の解剖刀《かいばうたう》で切開いて行くやうに、緻密《ちみつ》に描《ゑが》いて行かれます。そして、讀《よ》んでゐると、その冴《さ》えた力に驚《おどろ》き、亦|引摺《ひきず》られても行きますが、さて頁を伏せて見て、ひよいと今|作者《さくしや》に依つて描《ゑが》かれた人物の心理《しんり》を考へて見ると、人物の心理の線《せん》や筋《すぢ》丈《だ》けは極《きは》めて鮮《あざや》かに、巧みに表現されて居ますが、それを包む肝腎《かんじん》の人間の心持《こゝろもち》の色合《ニユアンス》や、味ひが缺《か》けて居ます。必然《ひつぜん》にどうしてもその心理《しんり》の動《うご》き方が、讀《よ》む者の心持《こゝろもち》にしつくり篏《はま》つて來ないといふ氣《き》がします。これを言ひ換《か》へれば、氏の心理描寫《しんりべうしや》は心理解剖《しんりかいばう》であつて、心理描寫《しんりべうしや》ではないのでありますまいか。兎に角今の多數の作家《さくか》の中で、頭の鋭《するど》さといふ點では、恐らく里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22][#「里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]」に丸傍点]氏は第一人者といふべきでせう。そして、その文章《ぶんしやう》も如何にもすつきりと垢脱《あかぬ》けがして居て、讀んで居ては、實に氣持《きもち》の好《い》いものですが、特《とく》に氏の長所である心理描寫《しんりべうしや》といふ點に就て云へば、そこに最う少し人間的《ヒユウメエン》なものが欲《ほ》しいと思ひます。言ひ換へれば、氏は餘《あま》り巧《うま》すぎて、人間の本當の心理《しんり》の境を越えて飛躍《ひやく》しすぎるのでせう。

     三、志賀直哉氏

 作者の素質《テンペラメント》の尊さといふものを最《もつと》もよく感じるのは、志賀直哉[#「志賀直哉」に丸傍点]氏です。一體私は「留女[#「留女」に白三角傍点]」以來氏の作品を、今のどの作家の作品よりも好きなのですが、中でも「夜の光[#「夜の光」に白三角傍点]」の中に收められてゐる「正義派[#「正義派」に白三角傍点]」「出來事[#「出來事」に白三角傍点]」「范の犯罪[#
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